高尾山の神変大菩薩役行者高尾通信

高尾山の文学と伝説・民話

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役行者伝説

  神変大菩薩というのは「役小角」(えんのおづぬ)のことであり、平安時高尾山山門代に山岳信仰の隆盛に伴い「役行者」と呼ばれるようになったといいます。
 他に役優婆塞(えんのうばそく)とも呼ばれる。
 ちなみに”優婆塞”は寺に入らず仏道を修行する男子の呼称です。

 また、『源平盛衰記』などによれば本名は賀茂役君小角(かものえのきみおづの)で、一応神道の名家賀茂一族の分家にあたる。(ただし父親の名字は高賀茂とも伝わる)

 幼名を「金杵麿」あるいは「小角」と呼ぶのは、出生の時に前頭部が突出して獨鈷の形をしていからだとか、役行者を渡都岐白専女が懐胎した時、口に金色の獨鈷杵が入られたからこのように呼ばれのだ、と言われます。
 
 役行者は、舒明天皇6年(634)元日、大和国葛木上郡茅原の郷賀茂役氏の娘 白専女(母)と問賀介麿(父)との間に生まれ、吉野の金峰山で霊感を得て呪術を身につけたといわれています。小角は、幼少の頃から博学で、梵字を書いたり拝んだりしていた。まわりの子らとは遊ばず、泥や土で仏像を作り、草の茎でお堂や塔を建て、花や水をそなえて礼拝していたという。

 17歳になると元興寺(現在の飛鳥寺)で学ぶ。やがて、葛城山で山林修行に入り、さらに、熊野や大峰の山々で修行を重ねる。箕面(みのお)山の大滝で、龍樹菩薩から秘法を授けられ悟りを開いた。そして、孔雀明王の呪術を修得する。孔雀明王の呪文を唱えると、蛇の毒を含むあらゆる毒、病気、災厄や苦痛を取り除くことができるという。
 いくつかの史書に名を残す役小角は、『続日本紀』に、文武3年(699年)5月、「役小角伊豆に流さる。・・・」と記載されていることからも、実在の人物であったことは間違いないところでしょうが、その生涯の殆どは伝説に包まれており真実の姿はつまびらかではありません。何せ平安前期に書かれた『日本霊異記』によると、「五色の雲に乗って、はてしなく大空の外に飛び、・・・・力を養う霞などを吸ったり、食べたり、」でき、更に、「洞窟に住み、葛を着、松を食べ、・・・・孔雀の呪法を会得し、不思議な威力のあらわれる仙術を身につけることができました。」と記されているのですから。

 高尾山薬王院は、古来より山岳宗教の修験道として発展してきた証として、その開祖である役行者、つまり神変大菩薩が祭られているのです。

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『続日本紀』による役行者

 役小角は「続日本紀」に出てくる実在の人物と考えられています。さらに、同時代に著された後述の「日本霊異記」にも取り上げられたことから、当時から著名な人物であったことがわかります。
 (文武天皇三年五月)「役君小角、伊豆島に流さる。初め小角葛城山に住し呪術を以て称さる。外従五位下韓国連広足(からくにのむらじひろたり)れを師とす。
後、その能を害み讒するに妖惑をもってす。故に遠処に配す。世に相伝へて言く、小角よく鬼神を役使し、水を汲み薪を取らしむ。もし命を用いずんば、すなわち呪術をもってこれを縛す。」
(岩波書店「新日本古典文学大系『続日本紀』」より)

 日本の正史とされる『続日本紀』によると役行者は634年(舒明天皇6年)、御所市茅原で誕生。名は小角といい、幼少の頃より葛城山で修行するなど山林修行や苦行の末、金峯山にて金剛蔵王大権現を感得され、修験道の基礎を開かれたと伝えられています。 同書によれば、小角ははじめ葛城山に住み、呪術によって有名になった。

 699年(文武天皇3年)、外従五位下韓国連広足(からくにのむらじひろたり)の讒言(ざんげん)によって、小角が人々を言葉で惑わしているとしたため、小角は遠流になった。人々は、小角が鬼神を使役して水を汲み薪を採らせていると噂した。
 命令に従わないときには呪で鬼神を縛ったという。讒奏による罪状は「妖惑」、すなわち怪しげな言説をもって民衆を惑わしたということになっており、これは「僧尼令」に基づくものである。

 701年(大宝元年)無罪がわかり、許されて都に戻りました。同年6月7日68歳で、箕面の天井ヶ岳にて入寂されたと伝えられていますが、異説も多く、「昇天した」「母を鉄鉢にのせて海を渡って入唐した」などと多くの伝説が残されています。以降、この『続日本紀』を基本とした役小角(役行者)の伝説が、各時代ごとに様々な書物や絵巻に描かれていく。その尊像の多くは、折伏した2匹の鬼(前鬼・後鬼)を従えた仙人風の姿で祀られています。

参考文献>
銭谷武平『役行者伝記集成』東方出版
宮家準『修験道組織の研究』春秋社
宮家準『役行者と修験道の歴史』吉川弘文館

日本現報善悪霊異記にみる役小角

 役小角にまつわる話は、やや下って成立した「日本現報善悪霊異記」にも採録されています。荒唐無稽な話が多い説話集ですので、事実として受け止められるものではないのですが、かといって完全な創作ではなく、当時流布していた話を元にしていると考えられます。日本霊異記上巻第28に「役の優婆塞は、生まれながらに知があって、博学なること当代一にして、三宝(仏、法、僧)を信じ、これを持って業とした」と書かれ、役小角は、仏法を厚くうやまった僧ではない在家の信者として現れます。このように役小角を密教行者として描いていることが、後にそれが元となって様々な伝説が生まれたといわれる。

 これによれば、大和の国葛木上郡茅原村の人で、賀茂役公の民の出である。若くして雲に乗って仙人と遊び、孔雀王呪法を修め、鬼神を自在に操った。鬼神に命じて大和国の金剛山と葛木山の間に橋をかけようとしたところ、役行者は、鬼神を使役できるほどの法力を持っていたという。前鬼と後鬼という夫婦の鬼を使役したと言われることから、邪法を使う者として名をおとしめられることもある。しかしこの前鬼と後鬼は、能の『鞍馬天狗』などでは大峰山の天狗だとされている。そうすると、この前鬼と後鬼は、もともと役行者と同じ山岳修験者で、行者に付き従った者たちと考える研究家もいる。

 672年(天武天皇元年)役行者39歳の時「壬申の乱」では、大海人皇子(第40代天武天皇)に味方して戦を勝利に導きましたとされています。

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 ところで、役小角は、ある時、葛城山と金峰山の間に石橋を架けようと思い立ち、諸国の神々を動員してこれを実現しようとした。しかし、葛城山にまつられる国津神である一言主(ひとことぬし)は、自分の姿が醜いのを恥じて夜だけ働こうとした。そこで役行者は一言主を神であるにも関わらず、明王の呪法をもって責め立てた。
 すると、それに耐えかねた一言主は、貴族の夢に現れ「役小角は神通力で天皇に災いをなそうとしている」と告げ天皇に役行者が謀叛を企んでいると讒訴したため、役行者は彼の母親を人質にした朝廷によって捕縛され、伊豆島へと流刑になった。当時の伊豆嶋は伊豆大島のことをさしている。こうして、架橋は沙汰やみになったという。

 伊豆島に流されたが、小角は昼間は島にいて命令に従い、母親に孝行をしていたが、夜になると富士山に登り修行をした。さらに、霊地を見つけると海の上を踏み渡り、大空を飛んでその地に向かったといわれている。そして、夜が明けるとともに島に戻っているのである。相模の江ノ島の裸弁天の影向(ようごう、神仏の仮の姿)等を拝しています。

 また「日本霊異記」上巻28によると、道照法師が唐へ往られた時、新羅の五百の虎の要請により、法華経を講じていたら、聴衆の中に日本語で質問する者がいて、名を尋ねると「役優婆塞」と名乗ったと伝えられます。

 大島に配流されてから3年が経とうとしてい頃、小角の評判の良さを耳にした一言主神は、またもやこれをねたみ疎んじ「小角をすみやかに死罪にせよ。」と再び天皇に告げたという。大島に天皇から派遣された勅使は、到着するや小角を浜辺に引き出した。刀を抜き振り上げようとしたその瞬間、小角は舌で刀をねぶり「さあ、早くわれを斬れ。」と言った。勅使が、その刀を見てみると、富士明神の表文が浮かび上がっている。勅使はこの事象にあわて恐れ、早速天皇に上奏し、その裁下を待つことにした。

 天皇は博士を召し出して表文を説明させると、博士は「天皇も謹んで敬い給うべし。小角は凡夫ではなく、まことに尊い大賢聖である。早く死刑を免じて都にお迎えし、敬い住まわせ給うべきお方である。」と言ったという。天皇は早急に使者を島に送り、小角の死刑を免じた。

 故郷に戻った小角は、母を鉢に載せ五色の雲に乗って天に昇ったと伝えられており、大宝元年(701年)6月7日が、役小角と母の白専女が冥界に旅立った日とされている。また、一言主神は小角によって役優婆塞の呪法で縛られて今(霊異記執筆の時点)になっても解けないでいるというのです。

 寛政11年(1799年)には、聖護院宮盈仁親王が光格天皇へ役行者御遠忌(没後)1100年を迎えることを上表した。同年、正月25日に光格天皇は、烏丸大納言を勅使として聖護院に遣わして神変大菩薩(じんべんだいぼさつ)の諡を贈った。 菩薩というのは上求菩提下化衆生=菩薩道を実践する人のことであり、六波羅蜜行、自利利他円満の修行徳目を行じていきます。

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参考文献>
銭谷武平『役行者伝記集成』東方出版
宮家準『修験道組織の研究』春秋社
宮家準『役行者と修験道の歴史』吉川弘文館
 

 

高尾山でも盛んであった修験道とは

 高尾山でも盛んであった修験道とは、我が日本民族独自の精神文化に体系づけた日本国独特の宗教であり、顕密両経の妙味を自在に消化し、自ら独自の教えを形成し、その心を産み出した教えであります(高尾山薬王院ホームページより)。
 修験道は日本古来の神道の一つ山岳信仰であり、山に籠り修行することで「験」(しるし)が得られると信じられ、そのもの達を修験者とか山伏と呼んでいます。そして全国の霊山は多くが役行者の開山と称しているのです

 古来より山には神仏や祖霊が宿ると信じられてきました。言い換えれば日本古来の山岳信仰をベースに、仏教や神祇信仰、陰陽道が習合して形成された宗教が修験道といえます。

 その基本は、教理を探究するのではなく大自然の霊気の中で修行を積むことにより、人間の本能的欲望を断ち切り、即身即仏の境地に達しようとする実践実修の宗教」、つまり1本の樹木と化したように山にとけこみ、自然と一体化することで精神性が高められるのだという。 

 前述のように一般に役小角(役行者)が開祖とされていますが、実際には特定の開祖はおらず、中世から近世にかけて教団や教義が整っていったと考えられています。

このように修験道においては、山岳は曼荼羅であり、諸尊、諸菩薩が居住する聖地とされています。故に霊山の霊験を信じ、仏の懐の中で修行を重ねることによって超自然的な力を体得し、その法力によって衆生を済度する呪術宗教的活動を行う山伏(修験者)の宗教が修験道です。山岳修行によって霊力を身につける「山伏」です。彼らの活動は山に限らず、里における庶民の信仰とも深く関わったのです。

  修験道では、主に「不動明王」「金剛蔵王権現」を本尊として祀ります。修験道は中世期、大峰山では吉野・熊野を拠点として修業かおこなわれ、熊野側では聖護院を本山とする本山派が、吉野側では大和を中心に当山派が形成されたとされます。しかし、明治5年、政府により修験道一宗としての活動が禁止されたことにより、本山派は天台宗に、当山派は真言宗に組み込まれるかたちとなりました。

 明治政府による神仏分離令・修験道廃止令により、一時は歴史の隅に追いやられてしまう修験道だが、現在は、奈良県吉野山の金峰山修験本宗、京都市左京区の本山修験宗、京都市伏見区の真言宗醍醐派などを拠点に信仰が行われている。

 日本人は昔から山を神聖な場所として崇め尊んできたので、山の頂上には祠(ほこら) があり麓や山中には神社を造りました。関東地方にも沢山の修験の山があります。

 ご存知の通り高尾山には薬王院という真言宗のお寺があり、本堂の奥には鳥居を持つ神社建築である極彩色の権現堂があります。 飯縄大権現を本尊としており、「カラス天狗の姿をした神」で、長野県の飯縄山から勧請し本地仏は不動明王ということです。


参考文献>
銭谷武平『役行者伝記集成』東方出版
宮家準『修験道組織の研究』春秋社
宮家準『役行者と修験道の歴史』吉川弘文館


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