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大人の甲府旅をご提案。甲斐の国から甲府通信

甲府盆地のほぼ中央に位置する甲府までは

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歴史散策

 、甲府といえば戦国最強といわれた武田騎馬軍団が駆け抜けた地であり、武田信玄をはじめとした、戦国武将ゆかりの名所が多数あります。甲府城に武田神社、中道往還など昔の町並みが今なお残る歴史の香り漂う地です。

武田氏の栄枯盛衰
信玄公ゆかりの地を訪ねて
甲府五山
風林火山と武田二十四将


武田氏の栄枯盛衰

信玄

 山梨の表玄関・JR甲府の南口駅前でまずお目に掛かるのが、かの「武田信玄公像」です。軍配団扇を握り時の趨勢を見届けるようなやや厳しい顔をしています。武田信玄あっての甲斐の国、山梨といえるでしょう。

 武田氏は甲斐源氏であり、八幡太郎義家の弟である新羅三郎義光に始まると言われています。実際は義光の子である義清が常陸武田郷(茨城県勝田市武田)にいられなくなって甲斐に流れたとされます。義清の子である清光には多くの子があり、甲斐の国内各地に分封されて大きな勢力を持つようになった。その後は源頼朝に警戒され粛清を受けたり、中先代の乱や上杉禅秀の乱などで打撃を受けるも、一族が甲斐守護に返り咲くなどする。守護から戦国大名化し武田信玄の父である信虎の時代に国内をほぼ統一する。信玄の時代には信濃を初めに、西上野・駿河・遠江・三河と現在の山梨・長野・静岡・群馬の一部にまで版図を広げ、全盛期となる。

 晩年の信玄は京都を目指して上洛の軍を起こし、遠江(静岡県)の三方ヶ原で徳川勢を粉砕しましたが、病気のため、夢むなしく信州の伊那駒場で53歳の生涯を閉じました。勝頼がこれを継いだが、織田信長に攻められ武田氏は滅亡する。江戸になってからは武田氏の子孫や旧臣は徳川氏に仕えることになります。

武田氏の栄枯盛衰の武田氏の栄華と終焉


信玄公のゆかりの地を訪ねて

信玄

 甲府は武田信玄公一族のふるさとです。広い盆地には信玄公ゆかりの由緒ある神社仏閣が数多くあり、一族の栄華の夢の跡を今に伝え後世に残すところです。ここでは、武田信玄と武田氏に焦点を当てて、ゆかりの地を訪ねていきます。

信玄公ゆかりの地を訪ねての武田氏のゆかりの地を訪ねて


甲府五山

五山

 武田信玄は、信仰ばかりでなく知識人を集めたり家臣や領地を掌握するためもあって、多くの宗派の寺社への保護を行っている。そのため信玄に関わる寺社は多い。織田時代に多くが破却されたが、それでも武田時代の遺物を残すところも多い。 甲府(府中)五山は、信玄公が府中やその周辺に定めた5つの寺院のことです。長禅寺・東光寺・能成寺・円光院・法泉寺で、いずれも武田氏とゆかりの深い寺院です。


甲府五山の甲府五山


風林火山と武田二十四将

武田二十四将

 武田信玄に仕えた中でも特に優れた24名を指して示す呼称です。有名なところだと名軍師として知られる山本勘助や武田騎馬軍団の精鋭「赤備え」を率いた山県昌景などが挙げられます。武田軍団の中枢とされているが、二十四将の呼称が成立したのは江戸時代であり、また、活躍時期もそれぞれ異なって二十四将がそろって同時期に活躍したという訳ではないし、著書によって何人かは入れ替わっているようです。

 甲府市内には躑躅ヶ崎館(武田神社)を中心に二十四将の館跡があり、現在の山梨大学辺りが秋山信友の屋敷跡であったりします。二十四将館跡を巡ってみるのもおもしろいかもしれませんね。尚、原虎胤の屋敷跡だけは遺構が見つからなかったという事で、館跡は23箇所ということです。


風林火山と武田二十四将の





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