下原刀は日本刀本来の武器高尾通信

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下原刀は、折れず、曲らず、良く切れ、刃こぼれなしの日本刀本来の武器

 JR中央線・八王子駅から 西へ約10km。陣馬街道の川原宿交差点からモリアオガエルの道を経て, 辺名バス停のすぐ前に 「下原刀鍛冶発祥の地」と刻まれた石碑が建っています。(JR中央線「高尾駅」北口から西東京バス「恩方車庫」行きで、バス停「恩方車庫」下車徒歩約10分。または「恩方車庫」から西東京バス「小津町」行きで、バス停「辺名」下車すぐ)

 室町時代末期から江戸時代を通じて、現在の八王子市恩方地区や元八王子地区に住み、刀槍類を制作していた刀工集団のことを「下原鍛冶」といい、この集団が製作した刀槍類のことを「武州下原刀」といいます。(武州とは武蔵の国を指し、下原とは、現在の八王子市内の下恩方、横川、元八王子近辺にあたる)。
 一族の照重家の文章によると刀工は足利の月光山下原から移住したので下原鍛冶というという説もあります。
 武州下原刀は東京都唯一の郷土刀でもあります。

 武州下原刀は残存数も少なく、非常に貴重な文化遺産となっています。
 これは下原刀が美術品と言うよりも幅がややひろい無骨な反りをもつ刀身で、頑丈、よく斬れたという実践用(耐久力抜群)に作られた刀で、身が厚く美しさに欠けるため、と言われています。

 下原物はシタハラと読むことから、下っ腹と重ねて切腹を意味し嫌われたとの言われていますが、下原刀は、折れず、曲らず、良く切れ、さらに、刃こぼれしないという、日本刀本来の武器としての性能を見事に具現化しています。
 これが室町以来変わらず武家の支持を受け続けた理由でしょう。
 武器としての機能を極限まで追い求めた実戦本位の作風は、当時、治安の維持が責務であった幕府に重用されたのでしょう。
 実物は八王子市郷土資料館に三振りほど保存されています。
 いわゆる「下原肌」と言われる連続した独特の渦巻き模様があるのが特徴です。

 さて、そもそも下原刀は, 永正年間、又は享禄年間に領主大石氏の招きに応じ, 武州下恩方辺名のあたりに居住して鍛刀した山本但馬周重(やまもとたじまちかしげ)と名のる刀匠を祖とします(新編武蔵風土記)。
 のち, 隣接の地, 恩方下原に移り, 大石氏に変わってこの地を支配した北条氏の比護をうけ, 刀工たちは数々の名刀を鍛えていったのでした。
 
 二代目にあたる初代周重(ちかしげ)の次男が, 北条氏康(ほうじょう うじやす)の「康」の字をもらい, 康重(やすしげ)と改名したり,康重の弟が 北条氏照(ほうじょう うじてる)の「照」の字を賜わって 照重(てるしげ)を名乗ったとの記録があります。

 北条氏を後ろ盾に栄えた下原鍛冶でしたが、北条氏の滅亡後は、徳川家も、関ヶ原、大阪夏の陣に武器を供給した下原鍛冶を厚く庇護し、徳川氏の御用鍛冶となります。
  江戸時代以降、下原鍛冶一門は苗字帯刀麻裃の着用を許され、繁栄を謳歌することになります。
 水戸光圀から一字を賜った刀工(宗國、安國)もいます。
 武蔵太郎安國は、中里介山の小説「大菩薩峠」の中にも出てくる人気刀工でもありました。

 一族は宗家、本家、分家で十家にもおよび、「下原十家」などと言われました。 有名な刀工は、周重、康重、照重、照廣、正重、廣重、宗國、安國、國重、利長などです。
 彼らは江戸時代末期まで脈々と伝統の技を伝えていったのです。
 その作刀は全国に流布され, 独特の鍛練法による下原肌なる作風を示して, 数多くの名刀を残しています。

 さて、NPO法人「武州のよりあい」によりますと「平成最後の下原刀(したはらとう)」事業の締めくくりとなる「奉納」が、平成31年4月25日に行われました。同法人の調べによると、高尾山への奉納は1855年(安政2)以来、164年ぶり24本目になるといいます。

 NPO法人「武州のよりあい」は、約20年かけて研究し、現在に蘇らせた市内の刀匠・佐藤利美さんによって「平成最後」となる刃渡り71・5センチの下原刀を作刀し、高尾山薬王院に奉納したということです。
 原料となる砂鉄集めや古来の製鉄法・たたら製鉄、鍛錬の見学まで、市民参加型で行われてきました。

 なお、下恩方町には 先述の碑とは別に「下原刀匠康重鍛刀の地」と「下原刀匠山本但馬国重鍛刀の地」という2つの碑があります。(この碑から1kmほど東) 下原鍛冶の一門である 国重と康重の二人が それぞれ鍛刀した場所として, いずれも 八王子市の史跡に指定されています。

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