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2-17.中山勘解由


豊臣秀吉の関東進出に際し、八王子城に総攻撃を仕掛けたのが、前田利家と上杉景勝の大軍です。

 そして、天正18年(1590年)6月23日前田上杉の豊臣連合軍は力攻めによる殲滅作戦を展開,城内の婦女子は自刃し,御主殿の滝に身を投げ滝は3日3晩血に染まったと言い伝えられています。八王子城は1日にして落城し、両軍合わせて多数の死者が出たと言われています。このとき八王子城の城主、北条氏政の弟、氏照北条氏照以下家臣は小田原本城に駆けつけており氏照に代わり、八王子城を守っていたのが中山勘解由家範でした。

 中山勘解由家範は、馬術や槍の名手といわれる武勇の士だったようで、過去にも数々の手柄を立てています。八王子城の攻撃に当たった敵将をして「見事な戦いぶり、一騎当千の勇者だ。死なせてはならない。」と前田利家、上杉景勝の降伏勧告の使いを家範の下へ向かわせましたが、頑強に拒否し、果敢に身を挺してすばらしい戦いを繰り返した後、覚悟の上、最後のときを知った家範は、二人の男児と妻を斬って、自身も自刃して果ててしまいました。

 八王子城陥落の13日後、北条小田原城は、ついに降伏し秀吉の全国制覇がなりました。そのときの中山勘解由家範のすばらしい武勇を聞いた徳川家康は、家臣とともに落ち延びていた家範の二人の子供たちを探し出し、家康の小姓に召し抱えました。

 勘解由家範の長男が照守(当時21歳)で、照守の「照」は主君氏照の「照」を賜ったものでしたが、家康、秀忠にもよく仕え、大阪冬・夏の陣にも従軍し、功成り家禄を受け、やがて御旗奉行にまで昇進しました。次男が信吉(当時15歳)で、中山の近郷宅貫を采地として与えられました。慶長8年(1603年)伏見城において、刀を盗む賊徒を捕らえて功あり、これによって見出され、後水戸徳川頼房の養育と補佐に当たり、更にその子光圀を水戸家第2代の藩主に推挙しました。

 八王子城に向う道を途中右に曲る狭い道がありその道を進むと北条氏照とその家臣の墓(供養塔)があります。この氏照の供養塔は百回忌追善の際建立したものです。両脇は中山勘解由家範および中山信治の墓です。中山信治は中山勘解由家範の孫で水戸藩家老中山備前守信治です。




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