高尾の豆知識 


  

2-21.終戦直前の悲劇、猪鼻列車銃撃事件


 高尾山の麓、旧甲州街道の蛇滝口バス停近く(裏高尾町)に慰霊碑が静かに建っています。
これは終戦直前に起きた米軍機による列車銃撃事件による犠牲者を弔った慰霊の碑です。

 1945年8月5日(昭和20年)湯ノ花トンネル(*)にさしかかった満員の新宿発長野行きの中央線下り列車を米軍の艦載機P51が機銃掃射し多数の一般市民(非戦闘員)を死傷させるという事件がおきました。

 この空襲の特色としては、しばしば繰り返された戦闘機による銃撃空襲のなかにあって、あきらかに列車とその乗客の殺傷をねらって行われた空襲であったこと、その結果死者52名、負傷者133名という8月2日の八王子空襲に次ぐ被害を出したことです。また、この被害は列車に対する戦闘機の銃撃空襲の被害としては、全国で最大でした。

 当時はよく晴れて暑い日で、八王子空襲で不通になった中央線が3日ぶりに開通し、乗客が窓にぶら下がるほどの満員電車であったようです。機動車ED16は5両から8両の客車を引いて新宿を10時10分に出発したのでした。新宿駅から乗った人々のうちには、疎開先へ向かう人が多かったようです。空襲の激化にともなって山梨や長野は都民の疎開地になっていたからです。

 列車が八王子駅に到着すると、多くの人が乗り込み、かなり混雑していたらしい。暑い車中は通路も立錐の余地もなく超満員のため、男性や若者の多くは機関車のデッキ連結器上にもすずなりに乗車していたといいます。このように混雑していたのは、3日日ぶりの全面開通ということのほか、419列車が到着する前に八王子から出発するはずだった3本の列車(5時発塩尻行き、6時25分発大月行き、9時7分発甲府行き)が運休したことにもよるようです。当然のことのようにこの419列車は少し遅れを出しており、駅に停車中の11時15分には警戒警報が発令されたのでしばらく出発を見合わせ、20分ごろになって出発したといいます。

 419列車が約10分で浅川駅(現高尾駅)に到着すると、すぐに空襲警報が出たのでした。11時半のことでした。このため、「乗客全員は近くの寺院境内に退避させられた」とも、駅のホームとホームの間に退避させられたともいいます。

 419列車は、浅川駅で乗客を降ろして30分ほど停車していたようです。この間、浅川駅ではラジオで東部軍管区情報を聞いて、P51の動きに注目していたと思われる。おそらく、相模湾から北上してきたP51が正午前に八王子西方を通過して埼玉付近に達し旋回しているということを聞いて、今出発すれば小仏トンネル、悪くても湯の花トンネルに入れると考え発車を決めたのではないでしょうか。
 
 小仏トンネルまでは6分、湯の花トンネルまでは4分で入れることができた。P51はもう来ないか、引き返してもどちらかのトンネルに入る時間はあると判断したのでしょう。しかし、発車のための準備をしている間にも、埼玉付近にいたP51は刻々と南下してきていたのです。
 419列車が発車すると伝えられると、人々はいっせいに乗り込んだのでした。

 こうして満員となった419列車は、12時15分ごろに浅川駅を出発しました。中央線は浅川駅を出ると急に山が迫り、甲州街道と南浅川にかかる橋を渡ると谷間に入ります。そして、旧甲州街道と小仏川と並行しながら、湯の花、小仏トンネルへと線路は続いています。また、ここは1000分の15から25という急勾配で、列車にはきつい昇り坂でした。419列車はここをゆっくりとのぼっていったのです。

 湯の花トンネルは、浅川町の荒井地摺指地区の間に、北の山から張り出している通称「猪の鼻」と呼ばれる山すそに掘られている全長162メートルの短いトンネルです。419列車は、小仏関所跡の北側を通ってこのトンネルに向かっているところで、八王子駅の方から追いかけらるようにして来たP51に発見されたのでした。P51は高尾山から蛇滝付近で右旋回して急降下し、進行中の列車に対し南側から銃撃をあびせたのです。

 まずねらわれたのは機関車で、このために419列車は機関車と客車一両半がトンネルに入ったところで止まってしまいました。機関車は煙を出したが、炎上するようなことはなかったといいます。そして、P51はくり返しトンネルの外の客車に銃撃を加えた。二両目は一度銃撃を受けたものの、その後はトンネル内へ入ってしまったから無事だったのです。しかし、三両目はくり返し銃撃にさらされといわれています。トンネル内の二両目と外の三両目は悲劇の分かれ目だったようです。

 戦闘機が見えたとき、すぐ窓を閉めるように車内放送が流れましたが、満員の声にかき消され、うまく伝わらなかったようです。乗客は銃撃の合間に窓やドアからわれ先に車外に飛び出し、列車のかげ、畑の中、山の雑木林、線路の下を流れている谷川などへかくれたのでした。
 P51が飛び去り、山あいに夏の喧騒が戻った時、419列車の車内には荷物が散乱し、血しぶきや肉片が飛び散り、床には死者がころがるなどすさまじい光景が広がっていた。車外で撃たれた人もいたのでした。

                 参考文献:『八王子の空襲と戦災の記録』

 戦時下とはいえこれは国際法にも違反する人道上許されぬ行為として当時非難の声があがりました。

 現場近くに建てられたこの慰霊碑にはこの事件による犠牲者の名前が刻まれており、毎年この日には、「いのはなトンネル列車銃撃遭難者慰霊の会」が中心となり、慰霊祭が行われます。

ところで、2005年10月22日 読売新聞によれば、

 八王子市裏高尾町のJR中央線「湯(い)の花トンネル」付近で1945年8月5日、下り列車が米軍戦闘機に銃撃され、60人以上が死傷した事件で、たまたま列車に乗り合わせていた新聞記者が、銃撃の様子を生々しく日記に記していたことが分かった。同事件は、いまだ被害の全容がつかめず、不明な部分も多いだけに、事件に遭遇した乗客による当時の記述は全容解明のためにも重要で、郷土史研究家は「まさか記者が同乗していたとは。貴重な資料だ」と驚いている。

 日記は、銃撃事件で同僚記者とはぐれながらも、浅川駅の次の与瀬駅で再会し、互いに安堵(あんど)するまでを書き記しており、現場周辺の地図や銃撃を受けて逃げまどう乗客の様子を描いたさし絵も添えられている。これまで、生き残った乗客の証言が2機、3機などと食い違っていた戦闘機の数について、森さんは4機と記している。

碑文(表)

終戦間近の昭和二十年八月五日 真夏の太陽が照りつける午後十二時二十分頃 満員の新宿発長野行き四一九列車が いのはなトンネル東側入口に差しかかったとき 米軍戦闘機P51二機または三機の銃撃を受け 五十二名以上の方々が死没し 百三十三名の方々が重軽傷を負いました
この空襲は日本最大の列車銃撃と言われています私どもは この戦争の惨禍を決して忘れることができません
ここに 確認された犠牲者のお名前を書きとどめ ご遺族とともに心からご冥福をお祈り申し上げ現在の平和の日々をかみしめ 戦争を知らない世代へこのことを語り伝えます 

碑文(裏)

戦災死者供養塔は 昭和二十五年八月 当時の上長房(現:裏高尾町、西朝川町)青年団が 亡くなった方々を供養するため 団員協力のもとに建立したものです
供養塔には 亡くなった方々を荼毘に付した日影沢の石が用いられました
地元に住む人々は 尊い犠牲者のお名前も人数も知ることなく 供養塔の前に手を合わせご冥福をお祈りしていました昭和五十六年から八王子市教育委員会が八王子の空襲の調査を行い その後あらゆる手だてを尽くした結果 この事件の犠牲者は六十名以上と推定いたしました

そのうち 四十名のお名前と遺族が判った昭和五十九年 遺族関係者、地元の有志により七月二十一日に「いのはなトンネル列車銃撃遭難者慰霊の会」が発足いたしました会では この年の八月五日を「供養の日」に定め 毎年供養の集いを行い現在に至っています

供養塔は はじめ唐沢踏切の北側にありましたが 地主のご好意で南側の土地を無償で提供していただき 昭和六十一年七月二十八日現在地に安置されましたかねてから 会では蓄積した浄財で亡くなった方々のお名前を刻んだ慰霊の碑の建立を計画していたところ 平成四年三月 東京八王子南ロータリークラブからも協力の申し出があり ここに念願でありました慰霊の碑が完成いたしました




湯の花と猪の鼻
「湯の花トンネル」と書くが、読み方は「いのはなトンネル」というのが正しい。つまり、本来は「猪鼻トンネル」と書くのが正しい。八王子城山」の外郭から下る尾根が旧甲州街道を阻むように突き出してしるが、その形が横から見ると猪の鼻の形に見えることから「猪鼻」と呼ばれたという。だが、ここに甲武鉄道が敷設され、トンネルを開通させた際に、「猪鼻」を「湯の花」と書き換えてしまったものである。





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