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武士集団横山党

 横山党は、武蔵国府中の小野郷の小野氏を母体とした、「武蔵七党」随一の大族です。現横山町から多摩丘陵一帯相模北部、甲州郡内、北武蔵と広範囲に分散していたようで敏達天皇8代後裔小野氏の子孫、武蔵国造の子孫と称するが系譜は不詳。

 八雲・八幡神社境内に横山神社が祭られ、妙薬寺境内に供養塔がある。横山とはそもそも万葉集の「多摩の横山」にもあるように当時多摩丘陵を指した言葉で、横山党はこの地方の代表的な武士団とされる。

 (尚、武蔵七党という名称は、この地域の武士団の総称として使われますが、各党間でつながりが深いわけではありませんでした。七党といってもそれ自体が不明確で、横山、猪俣、児玉、丹、西、野与、村山、という説がある一方、横山、猪俣、児玉、丹、西、綴(つづき)、私市(きさい)、あるいは、横山、猪俣、児玉、丹、野与、綴、私市、という説もあります。)

 天永四年(1113年)三月横山党の二十余人が相模国の愛甲内記平大夫を殺害して、相模・常陸・上野・下総・上総五カ国の国司に追討の宣旨が出されました。この事件は横山隆兼の頃とされていますが、横山党は、何と、3年間も官使に抵抗した後、和解したといいます。気骨のある一族であったかもしれません。

 保元の乱(1156年)、平治の乱(1159年)が起こり源氏が勢力を失い、平氏の時代となりますが、保元の乱では横山党を中心とする武蔵武士が活躍しました。しかし、平治の乱では源氏は敗れ、源氏配下の武蔵武士は国へ帰りることになります。

 しかし、1192年、源頼朝が、鎌倉幕府を開くと、横山党の横山時広は軍功により横山庄の所領を保証され、また、横山氏の女を母とする梶原景時は元八王子村に所領を与えられるなど、八王子周辺は頼朝政権の所在地である鎌倉の防衛基地の一つとなりました。

 このように横山党は頼朝の源氏政権樹立に参画したのですが、源氏三代で滅ぶと北条政権によって粛正されるはめに陥るのです。
頼朝没後、頼朝の手足となっていた梶原景時が粛正されたのを手始めに、畠山重能の子の重忠と小山田有重の子稲城重成が誅殺され、そして和田義盛もまた滅ぼされたのでした。この和田合戦に愛甲・海老名・渋谷・横山氏といった横山党がこぞって和田方についたが、敗れて横山党は絶滅したのでした。

 その後の横山氏の領地は御家人大江氏に与えられました。

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