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高尾山の江川杉と江川太郎左衛門

 高尾山山頂にあるビジターセンターの北側の自然研究路5号路のもみじ台コースと1号路を結ぶ道沿いに、樹齢百三十年を越える植栽林が広がる。これが「江川杉」です。
 高尾山には人工林(植林)が多くありますが、この江川杉が高尾山で一番古い人工林と思われます。

  「江川」・・・この名前のもととなったのが、天領伊豆韮山代官、韮山反射炉、江川屋敷等で有名な「江川太郎左衛門」です。

 江川太郎左衛門は、江戸時代の伊豆韮山の世襲代官で、太郎左衛門は江川家当主代々の名前です。つまり、江川家の当主は代々「太郎左衛門」を名乗るわけです。
 江川太郎左衛門は三十六代の当主で、諱は英龍、号は坦庵(たんあん、たんなん)といいました。韮山反射炉を建造(但し、1854年に建造に着手したが完成前に病死)しましたが、この工業技術と建築技術は海外でも高く評価されているといいます。
 また、戦場での非常食、保存食としてパンを研究し、「パン祖」と呼ばれます。
 このほか、当時、国内では唯一佐賀藩だけが採用していた「種痘」をいちはやく領内で実施し種痘を奨励しました。太郎左衛門はこれを普及させるため、自分の子供に施して領内の者にみせ安心させたといいます。
 
 高島秋帆に砲術を学び、1842年から韮山に彼が塾長を務める「韮山塾(江川塾)」を開き、4千名を越える門弟に砲術を指導、新型の雷管銃を国産化し、雨に濡れても平気な韮山笠など軍装を改良、「回れ右」などの軍隊号令の日本語化などをすすめました。
 幕府の勘定吟味役格に任命され品川台場の建造、駿河湾で沈没したロシアの軍艦ディアナ号の代りに戸田で日本初の洋式帆船を建造など様々な分野でその力量を発揮した学者であり兵法者でもありました。

 ところで、江川太郎左衛門は、天保年間相模の国小山村を支配しており、高尾山薬王院末寺、天縛山蓮乗院惣代、豪農原清兵衛光保から天保11年(1840)願い出のあった、小山地先の相模野二百町歩開発の事を、天保14年(1843)9月に許可しています。

 この開拓地の鎮守として「高尾山飯縄大権現が勧請され、後に明治の神仏分離令によって、高尾山麓の地主神「氷川神社」が祀られるようになったと伝えられる。今日の相模原市氷川町の「氷川神社」がこれです。

 開墾地は、安政3年(1856)検地を受け、清兵衛新田420石余が村髙に加えられることになります。この事業の完成を感謝して、開墾奉行代官江川太郎左衛門は、高尾山に大量の杉苗奉納をしたと記録されています。これが、現在の「江川杉」というわけです。


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