高尾山の麓は批判精神の発祥の地高尾通信

高尾山の雑学・豆知識

高尾山の麓には近世日本における批判精神の発祥の地 庵の山

庵の山 高尾山の麓、多摩御陵総門手前右手の小丘は「庵の山」と呼ばれている。
 ここは近世日本における批判精神の発祥の地ともいうべき偉大かつ異色の禅僧石平道人の遺跡です。

 石平道人は本名を鈴木正三(しょうさん:1579~1655)といい天正7年(1579)、三河国加茂郡足助ノ庄則定村(現足助町大字則定)で、城主鈴木忠兵衛重次の長男として生まれた。

 幼少期はここで過ごしたが、重次が松平元康(後の徳川家康)に属していたので、天正18年(1590)、家康の関東入国に従って上総国(千葉)に移り住んだ。慶長5年(1600)、関が原の合戦では、正三は父重次と共に本多佐渡守組に属して徳川秀忠軍に加わった。その後、2回の大坂の陣にも従軍した。

 慶長20(1615)3月27日、三河国において二百石を賜り知行した。
正三は長男であったが、家を弟の三郎九郎重成に譲り、自分は高橋七十騎の内の一家を継いだといわれ、九左衛門とか九太夫重三、九太夫正三などと称して、家康に仕えた。その後、秀忠にも仕え、慶長20年(1615)二百石を賜り、旗本となった。

 歴戦の勇士であったが、元和2年(1620)42歳の時、多年の宿願である出家の身となり、草庵「堅叔庵」(けんしゅくあん)をかまえた。
出家した正三は、当初、畿内の社寺で修業を重ねていたが、元和9年(1623)頃三河に帰り、千鳥山(豊田市)や、弟重成が知行する山中村(豊田市)の石ノ平に庵を結んで、荒行を行なった。

 寛永9年(1632)、54歳のとき、弟重成の助力を得て石ノ平に石平山恩真寺を建立し、ここを拠り所として「石平道人」と号し、江戸・京都・大阪・三河各地などに出掛けては、厳しい宗教活動を行なっていた。

 また、正三は、念仏や坐禅の仕方についても、独自な方法を説いている。
坐禅については「正三の仁王不動禅」といわれるように、「仁王像や不動像のように厳しい心、激しい心を持って坐禅をし、その気持ちを一日中持ち続けよ」といい、念仏については「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と、息を引ききり引ききり、強く念仏せよ」とか、「眼を見すえ、拳を握り、きっと胸を張り出して、ナマイダブ、ナマイダブと申せ」といっている。
「果たし眼念仏」といわれるものである。

 彼の代表作のひとつである「万民徳用」は,仮名書きのやさしい和文で,「人々の心の持ち方が自由になり,人々が心の世界の中で,自由に振る舞うことができるようになるためならば,南無阿弥陀仏と念仏を唱えるのもよし,座禅をしてみるのもよし,さらには,そんなことは何もしなくても,毎日,自分に与えられたそれぞれの仕事に,精一杯打ち込んで働いていけば,それが,人間として完成していくことになる」と,民衆の日常に目を向け,宗教,禅,念仏にとらわれずに,世俗的な職業に励むこと自体が,仏教修行であると説いた。
鈴木正三の墓宗派宗門にとらわれることなく身分階層を問わず万民のために独特の「仁王不動禅」を力説し「命懸けの座禅をせよ」「眼を死の一字にそそげ」と号し、禅風改革に一石を投じたのでした。
 
 さて、参道北側の長泉寺には正三の座像があり、その墓も寺の墓地にある。

 近代自由解放精神の烈々たるものを示した点とともに近世仮名草子の作者として日本小説の基礎を開いたことでも有名であり代表作に「因果物語」や「二人比丘尼」がある。


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