高尾の豆知識 


  

2-7.高尾にみる梶原景時と梶原杉


 梶原景時は、鎌倉幕府初期の御家人ですが、ここ高尾山とも因縁があるのです。。

 先祖は、桓武平氏の流れを汲む鎌倉氏一族であり、大庭氏とは同族である。鎌倉権五郎景政は、後三年の役では源義家に従い、若干16才で勇猛な働きをしたとして名高い。その流れを汲む梶原氏は鎌倉一帯に一勢力をなしていた。源平の合戦で景時は息子の源太郎景季と共に活躍した。

 さて、源頼朝は、1180年、以仁王(高倉宮)の令旨を受け、挙兵しました。その緒戦の石橋山合戦では、三浦一族の援軍が遅れ、頼朝は惨敗を喫しました。
梶原景時は、この時には平家方の大庭景新(おおばかげちか)の軍に属し、石橋山の戦いで頼朝を追い詰めました。頼朝は逃れて洞窟に身を潜めていましたが、後を追ってきた景時に見つかります。頼朝はもはやこれまでと自害を覚悟します。しかし、平家の衰退の予兆を感じ、政治情勢に敏感な梶原景時は、なんと頼朝を見逃しました。『源平盛衰記』には「しばらく相待ち給え。助け奉るべし。戦に勝ち給いたらば、君、忘れ給うな。」といったとあります。

 後に大庭景親は殺されたが、景時は苦戦の頼朝を逃したことで鎌倉御家人に加えられた。源義仲追討や平家打倒の戦いでは軍奉行(いくさぶぎょう)として十分の働きを見せ、鎌倉幕府創立に功を立てています。
無骨な坂東武者の中にあって、景時は弁舌に巧みで京都的な教養にも富み歌詠みに匠みであったことが頼朝のお気に入りであったという。都の貴族からは「一ノ郎党」「鎌倉ノ本体ノ武士」と称されていた。

1191年に頼朝の命により鎌倉鶴ヶ岡八幡宮を元八王子のこの地に勧請した。このときに植えたといわれる「梶原杉」は高さ30メートルあまりの巨木で都内随一の大杉として都の天然記念物に指定されていた。枝が地上15メートルのところで下向きに垂れていることから「逆さ杉」とも呼ばれた。

 一説には景時がさした枝から芽を吹いたとの話もある。八幡神社のご神木として育てられていたが1972年に枯れてしまった。

 さて、景時は、鎌倉本體(かまくらほんたい)の武士」として源頼朝(みなもとよりとも)に重用され、侍所所司(さむらいどころしょじ)を務めるなど、鎌倉幕府の基礎づくりに尽力しました。しかし、その厳しさから御家人たちの反感を買ったとい います。朝廷の人気者になった義経を頼朝に讒言して死に追いやった等、政治の裏で立ち回ったと言う印象も強く、「大悪人」と古くから評せられているようだ。屋島攻撃の際に義経と作戦上の問題で対立するなど律儀な軍監である彼にとっては、義経の戦法は理解できなかったのかも知れない。
頼朝死後、頼朝の信任が厚かった結城朝光(ゆうきともみつ)という武士が、頼朝を慕う言葉を口にして、昨今の世の乱れを嘆いたことを、頼家に反意を抱くものとして二代目将軍頼家に讒言しました。

 驚いた朝光は、和田義盛や三浦義村らに連絡して善後策を相談したため、正治元年(1199)10月28日、千葉常胤、三浦義澄、畠山重忠といった有力御家人66人が連署した梶原景時弾劾状を作り、幕府に訴え出ました。一説には、頼家の独裁を支える鎌倉殿側近第一の梶原景時が粛正の的として狙われたと考えられている。景時は頼家の乳母夫の一人でもあったからだ。当時、頼家の鎌倉殿としての手腕に不安感じた側近の老臣たちは、母の政子と相談して、頼家が訴訟を直接裁断することを停止して、政所別当の大江広元はじめ元老や御家人代表十三人の合議制で裁決する事に決めてしまっていたのだ。

 さて、将軍頼家は、この弾劾状について景時に弁明を求めましたが、彼は何の申し開きもせず、12月18日、一族を引き連れて領地の相模国一宮にこもります。その後、幕府は景時の追放を決め、鎌倉の屋敷は取り壊されました。翌年、正治2年正月19日、景時らは京に向けて出発しました。その途中、駿河国、清見ケ関から大内(静岡県清水市)あたりで、鎌倉の命を受けたこの地の国侍の待ち伏せをうけ戦となりました。

 合戦は、夜に入って忽然として清見ケ関に始まり、暁方になって狐ヶ崎(静岡県清水市)で土豪の手にかかり殺害された。一夜のうちに数百の軍兵が叫び駆け回って殺し合い、頼朝の一周忌のあけた正治二年(1202)正月二十日、頼朝の股肱の臣ともいうべき梶原景時は幕府軍に討たれて一族諸共滅亡した。
一方、有能な補佐役を失った頼家は,その3年後,将軍の地位を追われている

 なお1955年頃には八幡宮の近辺で埋蔵金の噂が流れ発掘が行われたが発見できなかった。

     





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