高尾山の雑学・豆知識

高尾山は国際観光地第一号(あるいは国際紛争第一号?)

 高尾山は国際観光地第一号です。

 1858年(安政5年)、ついに日本とアメリカ合衆国の間に日米修交通商条約が締結された。この条約は関税自主権がないなど、かなりの不平等条約だったが、ともかくこの条約によって下田、函館に加えて、兵庫(神戸)、新潟、長崎、神奈川(横浜)の四港の開港が約束され、日本にいよいよ自由貿易の時代がもたらされることになったのです。

 この日米修交通商条約には外国人の遊歩規定、つまり自由に出かけてよい範囲の規定が設けてあり、それによると横浜を起点として10里とされていました。この制限は、当時世情穏やかならざる時、外国人に危害を与える者との接触を避ける意味から決められたものでした。
 
 外国人の行動範囲については、行動の自由を要求した各国と、長崎出島のように取り扱いたかった幕府との思惑の乖離は大きいものだったが、 危惧したことが、生麦事件の勃発だったと言われている。
 この事件の発生により各国は身の危険を感じ、10里以内の自由通行案を提案したといわれる。

 ところが1861年、英国人の団体が高尾山に登山(当然彼らに参拝という気持ちはなかったでしょうから)して外交問題にまで発展した大事件となってしまったのです。
 当時の日本政府は、高尾山は横浜から高尾山までは10里以上だというのです。ところが彼らは直線距離を主張していたのです。条約にはそんな所まで取り決めがなかったものですから仕方がありません。ちなみに横浜から高尾山までの直線距離は約39キロメートルつまりは当時の9.9里なのでした。

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