高尾観光案内


  

高尾駅北側の名所・旧跡

 

高尾山の玄関口 高尾駅


 えっ、なんで高尾駅が旧跡名所なの?といわれそうですが、高尾駅も実は立派な高尾の名所なんですよ。

JR高尾駅は、明治34年(1901)8月1日に浅川駅として作られました。
現在の駅舎は1927年(昭和2年)に新宿御苑につくられた大正天皇の大葬用停車場を移築したもので全国的にも非常に珍しい木造の駅舎となっており、今日まで受け継がれていますが、それがまた高尾とマッチして何とも言えない風情をかもしだしています。

 1961年には高尾駅と改称されましたが、中央自動車道の開通前は武蔵陵の最寄駅として列車で訪れる皇室関係者を地域住民が出迎えたきたという歴史も持っています。
 その後高尾山周辺の観光地化や宅地・霊園の各開発、67年にには京王電鉄高尾線が開通されたことで京王高尾駅が南側に並んで開設と乗降客は増えました。大学のキャンパスも急速に高尾近辺に開設が進み、現在の1日の乗降客は、約7万人といいます。                              
                                                          

   

 ところでこの高尾駅のホームには、いくつかの名物があるのです。

 ひとつめは「天狗面の像」。高尾山にちなみ大きな天狗の面の像が飾られておりこの高尾駅のシンボルとなっています。この天狗の石像は、1978年(昭和53)年に高尾観光協会と高尾山薬王院によって設置されたもので、東京造形大学教授であった大成浩氏が中心となって製作しました。塩山御影石でつくられたこの像は重さが18トン高さが2.4メートル鼻の長さ1.2メートルという大きなものです。 高尾駅に降り立ったら是非一度ご覧ください。  

 そして2つめは「高尾駅の柱」。
鉄道ファンには、うれしい話ということですが、高尾駅のホームの屋根を支える柱には古い明治時代のレールを使っているものが多いのです。
しかも甲武鉄道時代の1900年はじめの外国製や、国産八幡製鉄所製など今となっては貴重なレールばかり。列車を待つしばしの間、このレール達を探し、古き明治の香りをしのんでみては。

そして、3つめは、同じくこの柱のレールにまつわる「戦争の傷跡」。昭和20年(1945)年7月8日午後1時頃、当時まだ「浅川駅」といって頃、高尾駅は、米軍機の機銃掃射を受けたのです。実はその少し前、5月25日にも戦闘機が飛来し、駅の貨車に被害を出していました。

どちらの空襲の被害かははっきりしないのですが、そのとき受けた跡が1.2番線ホームの跨線橋のぼりぐち付近の柱の中央にまだはっきりと残っているのです。白いペンキで塗られていても弾丸の跡の残るレールの柱は、今もそっと戦争のむごさを物語っているようです。



金南寺


 高尾駅北口に降り、甲州街道を西へ徒歩10分、甲州街道の上を中央線が横切り、下を南淺川が流れる両界橋を過ぎた集落を『小名路』(こなじ)と呼んでおり、その右の小高い地点に真言宗宝生山観音院金南寺がある。江戸三大関所の一つといわれる甲州街道小仏の関所跡に近い、浅川の町を見おろす高台である。

 この寺は、高尾山薬王院の末寺であり、約600年前の貞治3年(1364)に真源大徳和上により開山されたといいますので、かなり古いお寺であることは間違いないようだ。
本尊は行基作木造十一面観音であったが明治期の政争で焼き討ちにあい消失、現在は阿弥陀如来。
本堂の入り口の両脇に、平成15年に安置された2頭の象の石像がある。1頭の象の背中には小象が乗り、合掌している。お釈迦様の母親、麻耶夫人は「白象が脇の下から体内に入る夢を見て、お釈迦様を妊娠した」という伝説がある。高尾のしだれ桜と言えば「高楽寺」が有名だが、多摩四国88カ所札所でもある本堂前のしだれ桜は、樹齢100年以上というしだれ桜で地元の人では有名なお花見スポット。桜の下では親子3匹の「象」が楽しそうに花見をしているようである。


寺の入口には小さな観音堂があり、一説には、このこの寺の下を流れる浅川で関所破りの磔の刑が執行されたため、この霊を鎮めるために立てられたとのこと。墓地の「供養仏」「村内安全」と記された石造の地蔵尊は、かつての小名路の磔場にあった物を移したという。寺の前の古道と呼ばれる小さな小道も、昔この浅川がよく氾濫したため、これを避けようとして作られた甲州への路であると思われる。本堂裏手の墓地は山の斜面にあって、高尾市内が一望にできる。

また、この付近の地名「小名路」はこの寺の名前から改め用いられたと「武蔵名勝図会」にある。

境内に歌人上田都史の歌碑。     「男地球に立ち夕映えに言うこと多く 」



十十里の古戦場跡


 永禄12(1569)年10月1日、武田信玄の武将小山田信茂と滝山城主北条氏の重臣達が一大血戦を行ったところです。JR高尾駅から高尾街道にそって少し登っていくと写真のような案内板が立っています。今は全くその跡形はなくこの地の地名からしのばれる程度です。

 武蔵名勝図会によれば、「鳥取古戦場、今は十十里と書くなり」とあります。秩父へ十里、鎌倉へ十里隔てるというところから廿里(とどり)と呼ばれるようになったという説が有力です。

 永禄12年、甲州の武田信玄は、北条氏康の小田原城を攻めんとして 甲州(山梨)を出発し、碓氷峠を越えて武蔵方面(埼玉)の北条氏の出城を次々と攻略しながら南下してきた。滝山城を攻めるため自ら拝島に陣をしいて滝山城に篭城する北条氏照を牽制した。

 一方、信玄の武将小山田信茂は、騎馬200人、徒士雑兵900人をもって小仏峠を越えて滝山城に向かって押し進めた。滝山城方は、甲州からの攻撃は予想していなかったので、あわてて犬目の原を駆け抜けここ十十里(とどり)の原で北条軍と血戦となった。
北条軍は、氏照の重臣、横地監物、中山勘解由、布施出羽守という精鋭部隊を急遽滝山城から派遣、両軍はこのあたりで攻防戦を繰り広げた。

 小山田軍は、兵を5手にわけ十十里山(249m)から「銃丸を射ること雨の如く」(武田三代軍記)攻めたので、結果は一戦にして北条軍が敗れ去ったとされる。小山田軍は勢いに乗じて滝山城下まで追跡、一方、信玄の本隊も上州から大菩薩峠を越えて本陣を多摩川の対岸、拝島大日堂に置き、武田信玄の子四郎勝頼をして滝山城を強襲した。城主の氏照自身も槍を振るって手傷を負いながらも奮戦したが、本丸・二の丸まで追いつめられた。滝山城はこして裸同然となったが、武田軍の目的は小田原城にあったため3日目には杉山峠越えで小田原城攻撃へと転進したとされる。いずれにせよ、この合戦で、北条軍は首級を251もとられたという。

 この合戦の戦法は、後に「キツツキ戦法」と呼ばれるようになった。小田原城侵攻という本来の目的を達するために、別の出城を攻め、あたかもキツツキがくちばしで木をつつき虫を木から追い出すように、おびき出す戦法のことです。
廿里町には、この時八王子城防衛の前線に武田氏攻撃に備えて築いた防塁の跡が残されている。






熊野神社


 JR高尾駅北口より西八王子方面へ甲州街道にそって6~7分ほどいくと木々でうっそうとした薄暗い境内が見つかる。これが熊野神社だ。旧来より鎮守の森として住民から親しまれてきたが、神社縁起によれば、その昔諸国行脚の旅をしてここまでたどり着いた老夫婦が、紀州和歌山の熊野大社を奉斉したとのこと。その後、天正元年に北条氏照が再建したこれにいたったとか。 社殿左側にはご神木があるが、風邪除け、長寿の木として地元に崇拝されている。

 また、中央線の南側には杉木立があって、ここはぢぢいの森、ばばあの森、またの名をお杓文字様といった。ここの祠に奉納されている杓文字をつかって飯を盛るとたちどころに風邪が治ったという言い伝えがあり、大正のころまでは付近の方達がよくお参りしていたようである。京王線の拡張工事によってこの熊野神社の境内に移されたというが、結局、中央線の開通と共に消滅してしまったようだ。

また熊野神社ではご神木として樫の木と欅が根元から一緒になった珍しい木がある。地元ではこの木を縁結びの木といってこの木の下に自分の名前と恋しい人の名前を書いた小石を二つ並べておくとその願いがかなうという。今も昔もままならぬ恋の行方は神頼みか........

 



白山神社


 高尾駅北口から、ほどない廿里の山の斜面には、ここ地元では、「白山様」と呼び親しまれてきた神社があります。毎年9月29日にはお祭りで賑わいます。
およそ700年目の鎌倉時代の建立と考えられているようです。江戸幕府よりご朱印を授与されているようで、そういった意味では、この地域の神社としては、かなり位の高いものだってのではと推測されています。

 白山神社はちょうど桜の実験林で有名な多摩森林科学園の裏にあり、数年前に実験林が拡張された際に、麓の白山橋のそばに社殿を移築したようです。それまでは、この山の長い階段を登っていかねばならず信者の方には相当の負担だったようですが、これでお参りも楽になったとか。

 江戸時代、時の幕府から14石の御朱印を賜ったといいますが、高尾のような地方の神社ではかなり高額であり、格式が高かったことを物語っている。






旧甲州街道



 高尾駅から甲州街道に沿って少し、西八王子方面へ向かうと、まもなく左手に両側に黒塀と脇に水路のある古道にでます、
これが旧甲州街道です。
最近は建替えが進みましたが、未だに江戸時代の面影が残る部分も多く、ほんのわずかの距離ですが、ほっとする路地でもあります。
この黒塀の屋敷に住む方たちは、大半が、千人同心の子孫ということです。
 
 特に北側の石川家の石川日記は、千人同心として半士半農の生活を送った石川善兵衛が享保5年(1720)から書き始め、今日まで200年以上にわたって代々書き続けられており、貴重な資 料になっています。諸色覚日記ともいわれ八王子市の市指定有形文化財(古文書)となっています。この日記から江戸時代の天気や農業、信仰などを知る事ができるのです。



宋関寺


 中央高速道のガードをくぐった先、霊園前のバス停を左折すると4,5分で御殿谷川左岸の台地にある宋関寺を見つけることが出来る。

 旧境内地は,中宿の西方にあって、江戸時代には寺領10石が安堵されていた古刹である。
寺伝によれば延喜17年(917)に妙行(華厳菩薩)が創立し、安土桃山時代の文禄元年(1592)に舜悦禅師が北条氏照の冥福を祈って開基したと言われる。

 妙行が今の八王子城の山中で修行中、霊夢の中に牛頭天王の8人の童子が現れ、八王子権現として祀ったのが八王子の地名がおこったと伝えられている。文明年間(1469~87)に堂宇が廃頽しつくしていたところを豊北条氏照が永禄7年(1564)曹洞宗の寺として再興したといわれる。しかし、天正18年(1590)のの八王子城攻防の際に兵火にあい焼失した。永禄2年(1689)氏照の百回忌にあたり、あらためて新築された。明治に至り堂宇が荒廃したために同25年に現地で復興移築された。

 寺宝には「華厳菩薩記」をはじめ開山舜悦の墨跡など多くを所蔵している。鐘楼の梵鐘は元禄2年(1689)に、氏照に仕えた中山勘解由家範の孫で水戸藩家老の信治 が氏照の100回忌供養のために寄せたもの。高さ150cm、口径72.5cm、釣手に竜頭をあしらい複雑な技巧がうかがわれる。鐘身の中程にその追悼文が刻まれている。この梵鐘は由緒があったためか、戦時中の供出を免れている。

 本堂正面の「宗関寺」の額と同じく水戸光圀が重用した明人、東皐心越の書。寺は明治25年(1892)にここから北西300mの山あいから移ったもので、現在地には横地監物の築いた「横地堤」と呼ばれる石積み遺構が残っている。

「血染めの袈裟」が寺宝として残っている。

 なお氏照の墓は小田原駅前にあるがここは先ほどの100回忌に建てられたものだ。向かって右の墓は家臣中山家範の墓、左は家範の孫で後の水戸藩家老となった中山備前守信吉の墓石。
この高台はもとの宗関寺観音堂跡の地で、氏照墓の奥にも苔むした石塔墓石が多数たちならんでおり、付近は竹林杉木立にかこまれた静寂な趣をかもしだしている。




八王子神社


 「八王子」という地名は、全国に分布しています。それは、牛頭天王(ごずてんのう)と8人の王子(八王子)をまつる信仰の広がりの中で、八王子神社や八王子権現社(ごんげんしゃ)が建立され、地域の信仰を集め始めるとともに、地名として定着していったからです。
 八王子神社は、城山の頂上付近にひっそりと佇んでいます。延喜16年(916)3月に、深沢山で修行中の妙行師の夢枕に八童子が現れたことで社殿を造営し、牛頭八王子権現社と称したのが縁起となっています。牛頭天王をまつる信仰は、もともとインドから中国を経て伝わってきたものですが、わが国では、疫病や農作物の害虫そのほか邪気を払い流し去る神として、古代より定着したようです。中世には、その8人の子を眷属神(けんぞくしん)(主神に従属する神々)とし、あらゆる人間の吉凶を司る方位の神として全国に広がっていったといいます。


 天正6年に北条氏照が、八王子城を築城にあたって城の守護神としたが、天正18年の落城時に社殿は焼失したといいます。その後、元禄年間に鉄山無心が、社殿を再建したとされるが、これも火災に遭う。現在の社殿は江戸末期の造営のようである。八王子神社を中心とした地域が、いつごろから「八王子」と呼ばれ始めたかは、はっきりしていません。記録として残されているものは、永禄(えいろく)12年(1569)5月8日付け北条氏康(うじやす)の書状が今のところ最初のものです。


 

 


氷川神社


京王線高尾山口の北斜面にあるのが氷川神社ですが、実はここは由緒のある神社です。
 大きな鳥居のある神社です。ご祭神は、スサノオノミコトですが、記録によると応永年間(1394~1428)に片倉城主毛利備中守師親が武蔵一ノ宮の氷川神社を勧進したと伝えられます。
 寛文2年7月に再建され高尾の総鎮守となります。現在のお社は昭和27年8月の建築。昭和40年には、台風の被害にあい境内の300年の樹齢をほこっていた大木が根こそぎ倒されてしまいます。

 例祭には、神輿と獅子舞が奉納されます。天正18年八王子城主北条氏照が狭間村に寄贈した獅子頭の関係で、神事は狭間の氏子で奉仕されていましたが, 明治5(1872)年の行政区域変更で現在の狭間(はざま)町の御嶽神社に移りましたので、そこで,狭間より原集落の氏子が継承し、記録によると、翌年の明治5年に氷川神社が原地区の鎮守になり、新たに若者が舞い始めたと残っています。現在は町内会の獅子舞保存会がこれを守り奉仕しています。この獅子頭は市の無形文化財として指定されています。五穀豊穣、悪魔退散を祈願して奉納されるこの獅子舞は、毎年8月の第3土・日曜日に行われ、土曜日は原町のお祭りで熊野神社で、日曜日は氷川神社で行われます。


ちなみに全国には氷川神社が多数ありますが、二千年以上の歴史をもつといわれ、埼玉県さいたま市大宮区の「大宮氷川神社」が総本社となります。なお、大宮の地名は氷川神社を「大いなる宮居」すなわち「大宮」と称えたことに由来するそうです。

 そんな由緒のある氷川神社に参拝して登山の安全を祈願してから高尾登山に向かうというのもいいでしょうね。



八幡神社


 JR高尾駅から元八王子方面に向かい暫く行くと宮の前の交差点にたどり着く。バス停も「宮の前」という。赤い立派な鳥居はよく目立ちます。
 鳥居の傍らには「郷社八幡神社」と大きな御影石に刻まれています。神社由緒によれば、この八幡神社は建久2年(1191)、鎌倉鶴岡八幡宮の旧御神体を源頼朝から拝領した梶原景時が勧請したといいます。参道の両側には民家が迫り、桜の古木が昔を惜しむかのように十数本立っている。

 風土記によれば、鐘楼、阿弥陀堂、四座合殿社も備え、当時は規模の大きい神社だったようですが、現在は、榛名社、山王社、五社宮、天王社の小末社があります。
 この奥右手に景時ゆかりの「梶原杉」がある。景時が馬の鞭を刺した杉の木といわれ樹齢800年、目通り12メートルあり、地上より9mほどのところから枝が垂れ下がっているので「逆さ杉」と呼ばれ、昭和3年3月に都の天然記念物に指定された。

 ところがこのご神木は二度の火災にあってしまいます。明治42年から3年ごろ、樹根の空洞部から不審火により樹芯を焼いてしまうのです。また、昭和38年8月22日にも何者かによる不審火で出火、その後樹勢が衰えてしまい、ついに昭和47年4月29日に切り倒されることになりました。根株の輪切り部分が、八王子郷土資料館の玄関に展示されています。八幡神社とともに歴史を刻んできた年輪には、時代に応じた歴史を感じます。もっとも切り株の年輪から推定すると実は樹齢400年だったそうで、800年とは俗称だったようです。

今の境内の東には慈根寺(真言宗)があり、戦国期にはその後身で八幡社の別当寺と見られる慈根寺西明寺が存在し、明治元年(1868)に廃仏毀釈のとき廃寺となったことが知られている。地元ではこの八幡神社も城山も「ジゴジの八幡様」「ジゴジの城山」の名で親しまれている。


鍛冶屋敷跡



 八幡神社の東の地域には、鍛冶屋敷の地名、江戸中期の下原鍛冶である武蔵太郎安国鍛刀の地の碑や滝山城下から移った八幡・八日市などの町名や寺院跡と伝える地が残っている。







宝生寺


 真言宗 大幡山 蓮華院宝生寺のある一帯は、浅川と川口川にはさまれた加住丘陵の先端部で、やや急峻な谷を含む雑木林が残る。陣馬街道が北浅川に接し、大きく左に折れる切り通しから400m、右手の陵北大橋を渡ると宝生寺が見えてきます。

 室町時代の応永年間の開山といわれていますが、鎌倉末期に、当地方の真言宗に多大の足跡を残した義海により創建された大幡観音堂が,応永32(1425)年に寺になったと伝えられています。1591年には御朱印10石を拝領しています。戦国時代には滝山城主北条氏照の帰依を受け、一時滝山城下に移転して祈願所にもなりました。このことから10代住職の頼紹は、八王子城攻防戦の際、護摩祈祷の最中に八王子城の落城と同じくして焼死したといいます。

 江戸時代には、京都報恩寺末として真言宗関東十一談林の一となり、塔中當福院他、末寺38か寺を有した多摩有数の名刹となりました。
その後、1945年(昭和20年)8月八王子空襲により本堂ほか全てが焼失しました。1968年には鐘楼堂が再建され、以後再建が続きました。
 戦災から守られた諸仏、古文書等は多いが、中でも都指定有形文化財の鎌倉中期の山門の毘沙門天立像(像高91cm)が有名です。均整のとれた甲冑の彫法にもすぐれたこの像の作者は不明です。

境内には、中村雨紅(うこう)の 「夕焼け小焼けの鐘」碑があります。


下原刀 刀鍛冶の碑



 JR中央線・八王子駅から 西へ約10km。陣馬街道の“川原宿”交差点から “山田宮の前線”“モリアオガエルの道”を経て, “辺名”バス停のすぐ前に 石碑が建っている。(JR中央線「高尾駅」北口から西東京バス「恩方車庫」行きで、バス停「恩方車庫」下車徒歩約10分。または「恩方車庫」から西東京バス「小津町」行きで、バス停「辺名」下車すぐ)

 武州下原とは下原鍛冶といわれる刀工群が製作した刀剣類の通称で、下原刀は, 永正年間、又は享禄年間に領主大石氏の招きに応じ, 武州下恩方辺名(ぶしゅうしもおんがたへんな)のあたりに居住して鍛刀した山本但馬周重(やまもとたじまちかしげ)と名のる刀匠を祖とする(新編武蔵風土記)。

 のち, 隣接の地, 恩方下原に移り, 大石氏に変わってこの地を支配した北条氏の比護をうけ, 二代目にあたる初代周重(ちかしげ)の次男が, 北条氏康(ほうじょう うじやす)の「康」の字をもらい, 康重(やすしげ)と改名したり,康重の弟が 北条氏照(ほうじょう うじてる)の「照」の字を賜わって 照重(てるしげ)を名乗ったとの記録があります。その後も徳川氏の庇護をうけ, 江戸初期には江戸城城下諸大名・旗本の需要に応じ以来一族十家に刀鍛冶として繁栄しました。、その作刀は全国に流布され, 独特の鍛練法による下原肌なる作風を示して, 数多くの名刀を残している。また一族の照重家の文章によると足利の月光山下原から移住したので下原鍛冶というという説もあります。

 現存する刀は、現在非常に少ないのですが、これは下原刀は美術品と言うよりも幅がややひろい無骨な反りをもつ刀身は、頑丈、よく斬れたという実践用(耐久力抜群)に作られた刀で、身が厚く美しさに欠けるため、と言われています。実物は郷土資料館に三振りほど保存されています。刃に渦巻き状の独特の紋様があるのが特徴。

 下恩方町には この碑とは別に「下原刀匠康重鍛刀の地」と「下原刀匠山本但馬国重鍛刀の地」という2つの碑がある。(この碑から1kmほど東) 下原鍛冶の一門である 国重と康重の二人が それぞれ鍛刀した場所として, いずれも 八王子市の史跡に指定されている。





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