裏高尾に足をのばして高尾通信

高尾山の観光ガイド

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裏高尾を歩いてみましょう

峰の薬師

 高尾山の西、相模川をせき止めてできた津久井湖を見下ろす山中に位置する峰の薬師は、明応元年(1492)の創建と伝えられる古刹で、東京の新井薬師、高尾山の薬王院、大山の日向薬師とともに、武相(武蔵・相模)四大薬師の一つに数えられ、昔から武蔵・相模の人々に、生命を守り、心身の病を治す薬師様として、厚く信仰されています。眼病に霊験あるという古寺。三井(みい)の薬師とも呼ばれた。

 登山道は「関東ふれあいの道」として整備されている。境内から津久井湖方面の眺めは美しく、特に夕日に輝く景色は格別です。

 現在は曹洞宗の寺院で、大覚山東慶寺と号します。『新編相模国風土記稿』によれば、当薬師堂の本尊薬師如来像は像高一尺三寸の木造坐像で、行基作の伝承があります。
 
 この薬師に着くとまず鐘つき堂が目に入る。峰の薬師は富田常雄の小説、「姿三四郎」で 柔道の姿三四郎が、唐手(空手)の檜垣兄弟と果し合いを行う場として登場します。
 黒澤明により映画化もされている同作品ですが、記念碑が建てられています。石碑の裏に「桧垣鉄心と源三郎」兄弟から「姿三四郎」に宛てた果し状まで書かれていて、事実のように錯覚してしまいます。

         神奈川県相模原市緑区三井1497

宝珠寺

 高尾山裏高尾の旧甲州街道をバスに乗って終点から少し歩いたところにある宝珠寺は、臨済宗南禅寺派の禅寺です。 小仏川に流れ込む支流の合流点にありました。山号は小仏山。

天台宗座主道明の開基だったが応永年間(1349-1428)に臨済宗に改宗した。当初、行基作の大日如来がご本尊でそれが小像であったため、このあたりが小仏になったと伝えられる(火災により焼失)。

 現在の本尊は恵心僧都源信の作と伝えられる木造釈迦如来像。小仏断食道場としても知られていたのですが, 平成4(1992)年からやっていないそうです。

 宝珠寺は、境内に入ると目の前に崖が迫り、その上に本堂があります。
都天然記念物に指定された巨樹カゴノキはその本堂の手前、崖の中腹にあります。

 太い幹に見えるのですが、主幹は枯れて、その周囲を枝幹がとりまいて一株をなしている。目通り幹囲は、約4メートル、高さは約23メートル、根もとから1.3メートルのあたりから多くの枝が分岐している。
 一部の根が約3.1メートルの崖下の通路に露出し、樹幹を中心に南北約22メートル、東西約17メートルある。カゴノキはコガノキともいい、暖地性常緑樹で雌雄異株。樹勢はきわめて旺盛で、関東地方における大樹である。


千代田稲荷

 高尾山の高尾梅林を代表する湯の花梅林と老人ホーム浅川清明園辺りに来ると山へ向う分岐道がある。その分岐道の入口に「高尾山登山口」と刻まれた古い石の道標が立っている。

 今は利用する人もあまり見かけないちょっと寂れかけたような登山道だが昔はここがメインルートだった「蛇滝道」である。この蛇滝道入口を少し入ったところに右手 清明園の裏手に千代田稲荷大明神の神額の掛かった石の鳥居が見える。

 鳥居の奥は急な石段で見上げると更に小さな赤い鳥居が二つ見える。

 江戸の中心、千代田城(現皇居)の守護神であった稲荷は康正3年(1457年)に太田道灌が築城に際して勧請し守護神として城内に祭ったとされている。

 その後、徳川家康が江戸開府の時、三方が原の合戦以後加護を得た白狐の遺骨を祭り、城内紅葉山に移し歴代の将軍家にも鎮護の神としてあつく永く敬われてきた。

 幕末の動乱時永く大奥に仕えこの稲荷を信仰してきた奥女中(滝山)にこのご神体は託され、江戸城を脱出したとされる。後年神縁に導かれ紅葉山と称せられる当地に奉還されるに至ったという。

 以来大正12年の関東大震災までその子孫の邸閣に祭られてきたというが、現在の地に昭和4年に移設され祭られた。

常林寺

 高尾山の裏高尾の摺差(するさし)にある常林寺(じょうりんじ)は、曹洞宗の寺で、高尾駅南口にある高乗寺の末寺です。
 入口に、二十三夜と書かれた二十三夜塔や庚申供養塔などが並んでいます。二十三夜塔は月を信仰の対象とした供養塔です。
 大正六年の火災で焼失したあとに再建されたお寺とのことです。
 寺を興したのは峰尾氏とされていますが、ここ摺差地区の住民はほとんどが峰尾氏ですから驚きです。
 佐藤孝太郎著『多摩歴史散歩』によれば、峰尾氏は14世紀の南北朝時代の南朝方の重鎮小山氏の末裔とのことで、足利氏の圧力を避けて一族は常陸・会津・白河と転々とした後、八王子に至り、甲斐の武田氏の元で再挙を図るもかなわず、ついには摺指のこの地に土着したといいます。

口留番所(こうりゅうばんしょ)

 高尾山の麓、小名路追分から程ないところ、小仏川を渡ったあたりを「落合」といいますが、ここには、小規模の番所がおかれ、相州津久井方面の物資と通行人の看視と駒木野の関所を抜ける者を看視していました。
この番所は上椚田(現高尾、東浅川、初沢、南浅川)の村人が交代で勤務していたという。

 口留番所というこのような番所は、当時日本各地でも見られ、主要街道に設置された御番所と異なり、いずれも百姓身分の村人が鉄砲や槍といった武器を所持して自宅でその任に当たっていたといいます。

 本来は各藩が隣の藩との境に設けたものです。はじめは関所と同じように、藩の境の警備をおもな目的にしていましたが、幕府の体制が整い政治が安定してくると、もっぱら物資の流通を監視し、場合によって税を取りたてたりすることが業務の 中心になっていきいました。

 当時は、各藩の特産物などは藩が取引を独占していて、生産者や商人が勝手に藩外に持ち出して売ることができない「禁制品」となっていました。禁制品は手形など藩の許可証があるものだけが藩外に出すことが許されていて、口留番所はそう した許可証があるかどうかチェックしたり、その商品から関税を取りたてたりしたのです。

 また、武田氏が滅亡したとき、信玄の六女松姫一行が落ち延び、和田峠越えで北条領に入り、はじめに仮宿したのがここで、八王子城下にある心源寺の別院金照庵であったという。松姫はここで心源寺の卜山舜越和尚によって剃髪したと伝える。

 ここ落合の口留番所も道路拡張などで場所も特定されなくなっているが、今は甲州街道沿いに小さな標柱がたっているだけです。尚、明治2年の「口留御番所其外御吟味書」が残っていて、昔の様子を知ることができる。


小仏関所跡

 駒木野関ともよばれる。
 天正の中頃、滝山城から八王子城に本拠を移した際、北条氏照が、甲斐との国境を守るため小仏峠上に設けたもの。
 元和2年(1616)峠の上から現在の場所に移され、同9年頃から4人の関所番が取り締まりにあたった。
 現在、街道の脇には、道中手形を置いた手形石と手をついて吟味を待った手付石のそばに石碑がたっている。 

 小仏関所は幕府の大きな目となって時代をにらんでいた。旧豊臣浪人のクーデターである由井正雪の事件は未然に鎮圧されたが、江戸から脱出する浪人や江戸に潜伏する浪人の取り締まりは徹底的だった。小仏関所はその捜査本部にあてられ、女の髪を解いてまで過酷な取り調べを行ったという。      

 関所番は,始め八王子千人同心や関東十八代官の手代がかわるがわる務めていましたが、寛永18年(1641)からは4人に定められた。 )
           
高尾駅からバス駒木野下車20分

先賢彰徳碑

 小仏関所の公園の中に大きな碑が建っています。

 これは、幕末の志士、落合直亮、落合直澄兄弟や落合直文の功績を讃えて、浅川好史会が、昭和5年に建立したものです。碑文は尾崎行雄の書による。落合直文の弟子である与謝野鉄幹の句が添えられている。

「すがすがし関所の跡の松風に とこしへ聞くは大人たちのこゑ」 

 落合直亮、落合直澄兄弟は、関守の家に生まれた。兄の落合直亮は、国学者相楽総三に感銘し、家督を弟の直澄に 譲り、幕末の尊攘運動に身を投じた。薩摩屋敷浪士組の副総裁となり、関東の錯乱計画を実行した。

 幕府は、これに激怒し、その報復として薩摩屋敷を焼き打ちし、これを発端として幕府と薩長連合の鳥羽・伏見の戦い、戊辰戦争へと発展したといわれる。
その後、相楽総三が新たに結成 した赤報隊は、偽官軍に仕立てられ、指導者は捕らえられて下諏訪で処刑された。相楽総三の無残な死を知った落合直亮は、この策謀者である岩倉具視を殺害しようと押し入るが逆に岩倉に諭され、その人望に忠誠を誓う結果となった。
 明治元年(1868)落合直亮は、伊那県判事、三年後に伊那県大参事に昇進したが、翌四年に冤罪で失脚。

 落合直澄は、直亮の弟で、兄とともに倒幕運動に参加。東京帝国大学の国文学教授となり、明治21年に「日本古代文字考」を発表するなど晩年まで神代文字の研究を続けた。

 落合直文は、もともと仙台藩士に家に生まれるが、後に落合直亮の養子となり、ここ裏高尾、駒木野で少年時代をすごした。浅香社を創設し詩歌を発表、短歌革新の第一声をあげる。その傘下に与謝野鉄幹らがいる。国文古典の研究、編纂も行い「孝女白菊の歌」「青葉しげれ桜井の」「萩迺家歌集」など歌・作品・著作も多数ある。
尚、碑の除幕式には直文の弟子である与謝野寛、晶子夫妻が出席し、次の歌を詠んだ。

岩魚をばすすきにとふしひたしたる 
  山のくりやの朝の水おと
                 寛

をかしけれ人目の関の掟には 
  あらぬ山がの関の話も     
                 晶子
     

荒井遺跡

 高尾山にも遺跡あり1987年、高尾山の麓、荒井の旧上長房分校の北側周辺で縄文早期(8000年前)の落とし穴2カ所、土器片43個、石皿、摺り石、叩き石、石小刀、石鏃、黒曜石、チャートなどが見つかりました。

 どうやら荒井遺跡は、この時代の集落跡・猟場のようです。
 落とし穴は底に先のとがった棒を打ち込んだ直径1.5m深さ1mの穴で縄文時代の人がイノシシや鹿などの小動物をとらえるために作ったと思われています。

 新井遺跡について詳しくは
 

猪鼻列車銃撃事件供養碑

 旧甲州街道の蛇滝口バス停近く(裏高尾町)に慰霊碑が静かに建っています。荒井集落の元タバコ屋さん角を右折し、小川沿いに50メートルほど登ったところになります。
 これは終戦直前に起きた米軍機による列車銃撃事件による犠牲者を弔った慰霊の碑です。

 1945年8月5日(昭和20年)湯ノ花トンネルにさしかかった満員の新宿発長野行きの中央線下り列車を米軍の艦載機P51が機銃掃射し多数の一般市民(非戦闘員)を死傷させるという事件がおきました。

 戦時下とはいえこれは国際法にも違反する人道上許されぬ行為として当時非難の声があがりました。
 現場近くに建てられたこの慰霊碑にはこの事件による犠牲者の名前が刻まれており、毎年この日には、「いのはなトンネル列車銃撃遭難者慰霊の会」が中心となり、慰霊祭が行われます。

 列車銃撃事件について詳しくは

蛇滝茶屋

 高尾山登山口に位置するこの建物は、1903(明治36)年建築で、薬王院参詣、高尾山の蛇滝信仰の講中が 宿泊所・休憩所に利用していたものです。
 また、『五街道細見』に記載がある江戸後期に旅籠「ふじや新兵衛」を営んでいた家で、 軒下にははね板といわれる講の名前を彫った札が今も掲げられています。
 
 「記録文書類は発見されていないが、明治三六年(一九〇三)建造と伝えられる。高尾参りの行者、巡礼の宿泊及び茶屋として建造されたもので、現在では年に一度、終戦の碑の集会所として利用されるほかは使用されていない。桁行六間梁行二間の切妻造トタン葺きで、川縁の地形を利用して三段の自然石を積み基壇を設け、この上に自然石礎を置いて柱立てする懸崖造りとする。内部は八畳二間、六畳一間に分け、崖側に廊下を通す。川上側八畳は床飾りを備える。外観上は変哲のない茶屋だが、内部は明治時代の数寄屋建築の特徴をよく伝えるもので、豪華ではないが、バランスの取れた遺構である。本格的数寄屋といえるほどの質の高さは無いが、概して丁寧な造りとなっており、田舎地における「高級」観を表現したものと理解される。建築的に特筆すべき点は持たないが、全面庇に残された多数の参拝札は、明治末期から昭和初頭にかけての高尾信仰と遊山の結びつきの様を現代に伝える。」
(八王子市郷土資料館「八王子市伝統的建造物文化財調査報告書」より)

 現在では年に一度、湯の花トンネル犠牲者慰霊の集会所として利用されるだけのようで、列車銃撃を受けた当日も、救助の際この家の雨戸を使って、被害者を運んだと言い伝えられている。
 西側の橋詰には、「上行講 是より蛇滝まで八丁」と彫られた道標の石碑も残っています。


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