高尾にまつわる文学


  

 高尾山山上の浄心門をくぐり、108段の階段を上ってきた参拝者達は、その参道の両側に続く文学碑にはたと足を止め、しばし見入る。     

 これらの碑に刻まれたひとつひとつの句や言葉を落ち着いた気持ちで読んでみるとまた高尾の違った魅力に気がつくことでしょう。

 高尾山は、昔から多くの歌人や俳人が訪れてはその自然の美しさに心を打たれ数多くの作品を残している。      
 これらの石碑は、薬王院にゆかりの者や、戦争での思いで、母や父を偲び詠ったものと様々だが、いずれも心に訴えかけてくるものがある。戦前より近年作られた比較的新しいものまで様々ですが、数も増えてきているようです。


夕焼け小焼けの里



八王子市内をはしる国道20号を西に向かうと途中の追分交差点で、左へ甲州街道(旧名:甲州道中)、右へ陣馬(じんば)街道(旧名 :案下道(あんげみち))に分かれています。陣馬街道を西に陣馬高原へ向かうと「恩方」です。

童謡「夕焼小焼」の作詞者として知られる中村雨紅(うこう)氏はここ恩方(東京府南多摩郡恩方村上恩方(現在の八王子市上恩方町 ))で明治30年に生まれました。恩方はこのことから「夕焼け小焼けの里」と呼ばれています。中村雨紅は、日暮里の小学校の教職時代に八王子駅から徒歩で実家に帰る途中、綺麗な夕焼けを見て「夕焼け小焼け」の歌詞を作ったと言われています。


雨紅の生涯


 本名は、高井宮吉(たかい・みやきち)。明治30年、八王子市上恩方関場の宮尾神社の宮 司・高井丹吾とその妻・シキの間の二男として生まれました。郷里の恩方村報恩高等小学校を卒業した後、青山師範学校に進み、小学校の先生となりました。
大正の童謡・童話推進運動の中で、すさんだ子供たちの情操教育のために学級文集を始め、自分でも童話を書いていた。鈴木三重吉の「赤い鳥」にふかい共鳴を感じたという。ところが、童話を書くことは勉強を教える邪魔になると校長に叱られてしまい、仕方がないので歩きながら考えられる童謡作りに専念するようになったという。

 その後、昭和2年1月、神奈川県立厚木東高等学校で教師を務勤め、厚木市立厚木小学校校歌や厚木ちぐさ幼稚園園歌など多くの歌を残し、昭和47年厚木県立病院で永い眠りに就きました。

 雨紅の詞は、多くの人に愛され、全国にたくさんの歌碑ができています。雨紅が「夕焼け小焼け」の作詞者として有名になったのは、昭和31(1956)年に雨紅の還暦を祝って、地元の友人が宮尾神社の境内に直筆の歌碑を建て、テレビのクイズ番組に出演させたためでした。ところで、この雨紅という名ですが、同じ時期に売れっ子だった作詞家の野口雨情に憧れて「雨」の一字をもらい、雨情に染まりたくて「紅」を選んで「雨紅」というペンネームにしたといいます。

 現在、上恩方町には「夕焼け小焼け」にちなんだ「夕焼け小焼け文化農園」 が作られ、園内に中村雨紅記念コーナがあります。また、中村雨紅の墓は、陣場街道、夕焼け小焼け文化農園温室のそば(農園の外)に「高井家之奥津城(おくつき=墓の事)」と書かれたひっそりとたたずんでいます。なお、高井家となっているのは,雨紅の本名が高井 宮吉であるためです。



夕焼小焼


 雨紅は尋常小学校の教師として都内の日暮里まで通っていた。八王子駅から恩方村まで 16kmの道程を毎日歩いたそうである。故郷恩方の風景を歌った『夕焼小焼』。

 「夕焼小焼」は作詞がすばらしい上に、作曲者が長野県人の草川信(東京音楽学校出身、バイオリンの名手)で、二人の呼吸がまったく一致して出来た童謡である。信は、川中島周辺の大夕焼と烏の大群に感興を湧かせて作曲したという。この歌はピアノ練習用の譜面帳に掲載されていたが関東大震災で紙型から何から一切灰になってしまった。わずかに人手に渡っていて奇跡的に焼失を逃れた13部から、日本の代表的な童謡の一曲となった。雨紅の還暦を祝って、宮尾神社内に建てた直筆の歌碑について、テレビのクイズ番組に出演させたことから、『夕焼小焼』の作詞者として有名になった。



夕焼小焼の碑(宝生寺)


 陣馬街道が北浅川に接し、大きく左に折れる切り通しから400m、右手の陵北大橋を渡ると宝生寺(真言宗)が見えてきます。室町時代の応永年間の開山といわれています。当地方 の真言宗教学に多大の足跡を残した義海の大幡観音堂に始まり、その別当として宝生寺が建てられたと見られます。1591年には御朱印10石を拝領している。戦国時代には滝山城主北条氏照の帰依を受け、一時滝山城下に移転して祈願所になった。10代住職の頼紹は、八王子城落城の際、護摩祈祷中に焼死したという。

 江戸時代には京都報恩寺末として真言宗関東十一談林の一となり、塔中當福院他、末寺38か寺を有した多摩有数の名刹となった。1945年(昭和20年)8月八王子空襲により本堂ほか全てが焼失した。その後68年には鐘楼堂が再建、以後再建が続いた。戦災から守られた諸仏、古文書等は多いが、中でも都指定有形文化財の鎌倉中期の毘沙門天立像(像高91cm)が有名です。均整のとれた甲冑の彫法にもすぐれたこの像の作者は不明です。

 境内の鐘楼のわきには「夕焼小焼」の碑(中村雨紅筆)が建てられています。



夕焼小焼と日本人の無常感


 この夕焼け小焼けに、日本人の無常感を重ねあわせる宗教学者もおられるようです。「夕焼け小焼けで日が暮れてとは、落日の風景であり、その落日の向こうには極楽浄土があるというのです。「おててつないで皆帰ろ」も、そのとおり読めば、遊びつかれた子供たちが、みんなで連れ立って家へ帰る様子と受け止められるのですが、これもあえて読めば、みなが本来帰る場所へさあ帰ろうではないかと読めるのだという。「烏といっしょに....」も人間だけでなく、鳥も動物も虫達もさあ一緒に帰ろうではないかといっていると言うのだ。

 果たして、本当に雨紅が、この歌詞にこの無常感を埋め込んだかは今となっては知る由もないが、こう考えると童話の世界に秘められたメッセージがぼんやりとうかび、これはこれでまた違った受け止めができるのかもしれない。


中村雨紅の主な作品(作詞


『夕焼小焼』 作曲:草川信
『お舟の三日月』 作曲:山本正夫
『こんこん小兎』 作曲:山本正夫
『早春』 作曲:山本正夫
『花吹雪』 作曲:山本正夫
『花の夕ぐれ』 作曲:山本正夫
『坊やのお家』 作曲:山本正夫
『赤いものなあに』 作曲:山本正夫
『ふる里と母と』 作曲:山本正夫
『かくれんぼ』 作曲:林松木
『父さん恋しろ』 作曲:林松木
『ギッコンバッタン』 作曲:井上武士
『紅緒のぽっくり』 作曲:井上武士
『秋空』 作曲:石島正博
『海が逃げたか』 作曲:星出敏一
『荻野音頭』 作曲:細川潤一
『カタツムリの遠足』 作曲:吉田政治
『こほろぎ』 作曲:黒沢隆朝
『子猫の小鈴』 作曲:守安省
『ねんねのお里』 作曲:杉山長谷夫
『ばあやのお里』 作曲:寺内昭
『星の子』 作曲:黒沢孝三郎
『みかんとお星さま』 作曲:斎藤六三郎




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