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千人同心は警備を主任務とするも半士半農の珍らしい身分〜高尾通信



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主な千人同心

 八王子千人同心は、江戸幕府の職制のひとつで、武蔵国多摩郡八王子(現・東京都八王子市)に配置された郷士身分の幕臣集団のことである。その任務は甲州口(武蔵・甲斐国境)の警備と治安維持であった。
 このように本来は八王子に住んで西からの脅威に備えたものだったが、甲斐国が天領となったことでその役目は薄れ、やがて日光東照宮を警備する日光勤番などが主な仕事となっていた。

 江戸時代後期には、半農半武士という特徴から、幕府によって蝦夷地の開拓にも駆り出されている。冬の厳しい寒さのために本来の役目は果たせなかったが、現在の苫小牧の基礎を築いたのは、彼ら千人同心であった。

 彼ら千人同心は、文化面でも活躍している。主な千人同心をここで紹介します。

植田 孟縉(うえだ もうしん)

 宝暦7年(1757年)12月8日、熊本自庵の子として江戸屋敷で生まれる。19歳のとき八王子千人同心組頭植田元政の養子となる。通称は十兵衛、孟縉と号した。

 文化10年(1813年)、文化年間に幕府は全国の地誌作成にとりかかり、八王子千人同心の適任者に武蔵国多摩地方の地誌を調査することが命じられました。
 孟縉は同心勤務のかたわら学問に励んでいましたが、その地誌調査メンバーに選ばれたのです。このとき孟縉はすでに58歳でした。

 孟縉たちは、文政7年から多摩郡をはじめ、さらに高麗郡・秩父郡(現埼玉県)まで広範囲に、社寺の由来や古文書、旧家の系図、山川村々の古い言い伝えなどを調べて回りました。
 こうして武蔵国各郡の調査のうえ作成されたのが『新編武蔵国風土記稿』です。完成に20年ほどもかかったことになります。
 また、孟縉はこの作業のかたわら多摩地方の地誌を取りまとめました。それが豊富な挿絵を用いた『武蔵名勝図会』です。

 このほか、孟縉は、日光勤番の知見をもとに『日光山志』、さらに徳川光圀編纂書を補うように『鎌倉攬勝考』を書き上げました。

 多摩地方の歴史等を調べようとする専門家は、真っ先に『新編武蔵国風土記稿』及び『武蔵名勝図会』を参考にすると思われます。

 孟縉は天保14年(1843)に自宅(現・八王子市千人町)で87歳で亡くなりました。
 これは江戸時代の人としては大変な長寿だったと言えます。墓地は宗徳寺(東京都八王子市滝山町1-719)にあります。

塩野 適斉(しおの てきさい)

 剣術にすぐれ、太平真鏡流開祖・若菜豊重に入門し、免許皆伝。
 多くの千人同心に剣術を教えた。また朱子学を林家の家塾へ河尻春之の紹介で享和2年(1802年)入門して、学を修めている。文化10年(1813年)、八王子千人頭・原胤敦に地誌制作の幕命があると、植田孟縉らとともに武蔵国の多摩郡、高麗郡、秩父郡の地誌編纂に従事、『新編武蔵風土記稿』の一部を完成させる。
 さらに『新編相模国風土記稿』の編纂にも従事した。

 『桑都日記』を幕府に献上した(「桑都」(そうと)とは織物の町・八王子のこと)。
 これは多年の調査と膨大な資料をもとに、1582年天正10年(1582)から文政7年(1824)までの243年間を、八王子千人同心と地域の様々な事項について、編年式に解説を加えたものである。

 文政10年(1827)に正編15巻23冊、図解1巻2冊が完成、天保5年(1834)に続編24巻24冊、図解1巻1冊を脱稿し、正続合わせて江戸幕府に献上された。八王子の歴史研究の第一級資料となっている。
  その他、『適斎文稿』、『適斎詩集』、『筑井県行』、『日光客中謾筆』などの著作がある。また恩人河尻春之の遺文集『製阪肥後公遺稿』を編纂している。

 弘化4年(1847年)11月16日、死去。
 葬儀には千人頭5名以下、500人を超える参列者があったという。享年73。
 墓は極楽寺(東京都八王子市大横町7-1)にあり、東京都指定文化財に指定されている。

 八王子市追分町に存在した塩野適斎の屋敷の建物は、現在は小金井市の江戸東京たてもの園に移築保存されている

並木 以寧(なみき いねい)

 以寧は、千人同心組頭で虎見良蔵といいました。医業を行うかたわら、元八王子に「養老畑」を設置し庶民の救済費にあてた人物です。
 書道の弟子も多く、墓石には門弟500名余りと刻まれています。(八王子市教育委員会掲示より)

並木以寧(虎見良蔵)は、医業の傍ら、私財を投じて元八王子に養老畑を開き、その利益を庶民の救済費に当てた。五百余人の弟子に書道を教え、医術をもって施療の努めた慈善家である。天保十五年、七十五歳にて死去。

 墓は臥牛の上に墓碑を載せた高さ二メートルの堂々たるもので、右側面には以寧の辞世の詩、左側面には法名が刻まれている。

 

石坂 弥次右衛門 義礼(いしざか やじえもん)

 「石坂弥次右衛門」の石坂家は八王子千人同心の原型となる甲斐武田氏が率いる軍事集団の9人の小人頭の一人として他国に繋がる国境警備を任に当たり世襲される名門である。

 幕末,慶応4年(1867)3月、八王子千人同心50名を率いて日光勤番に赴いた。折しも新政府軍が日光東照宮に迫り包囲した。
 石坂弥次右衛門は、日光を戦火から守るため戦わずして、官軍の板垣退助らに日光を明け渡す。しかし八王子に戻った石坂は、戦う意志のあった同心達により非難を浴び、その責任をとって切腹した。60歳であった。
 しかし、あまりに不憫なのは、介錯は年老いた父桓兵衛七十九歳があたったことだった。
 それにしても彼はたまたま、日光では本来の勤番中の同心の代替で任務にあたっていたときの悲劇であった。後に日光東照宮を戦火から救ったことが認められた。

 日光市(栃木県)とは,千人同心の日光火の番が縁で姉妹都市になった。左記の石坂の墓前の線香立ては日光市から贈られたもので「日光市」と刻まれている

松本 斗機蔵(まつもと ときぞう)

 、1795年(寛政5年) - 1841年10月26日(天保12年9月12日))は、江戸時代後期の儒学者。八王子千人同心組頭。三十表一人扶持。

 同じ千人同心組頭で「桑都日記」を著した塩野適斎に学び漢学を修め、湯島の昌平黌に学んだ。下総千葉氏の出といい、千人同心組頭の松本家の養子となった。渡辺崋山・高野長英・伊豆韮山代官江川英龍などと親交があり、探検家最上徳内や地理学者高橋景保とも通じ、水戸藩の藤田東湖とも接点を有するなど、開明派の一人であった。

 18世紀後半、ロシアの接近を心配した幕府は、北方の警備を強化していました。
 こうした状況の中、千人同心の松本斗機蔵は、海外事情に強い関心を持ち、八王子を訪れた北方探索の第一人者の最上徳内(もがみとくない)から、最新の情報を入手するなど、知識を深め、1837年(天保8年)末、「献斤微衷(けんきんびちゅう)」を著し、水戸・徳川斉昭に献上します。

 松本斗機蔵は、国防の大切さを訴えながらも和親外交を交易問題を具体的に提言。「西洋諸国と積極的に付きあうべき」というその主張は、当時の外交政策の一大転換を求めた注目すべきものでした。
 また、モリソン号が江戸湾(東京湾)に来航するとの情報を得た松本斗機蔵は、鎖国政策を見直し、貿易を振興し、海防の充実を図るべきこと、異国船打払令が無謀なこと、そして穏便な交渉が必要であると建言した。

 千人同心の組頭という地位でありながら、海外に視野を広げて見識を高め、幕府への提言を行った彼の業績は、特筆すべきものです。

 1841年(天保12年)、斗機蔵は幕府に才能を評価され、浦賀奉行に任命されたが、赴任しないまま同年病没した。八王子市千人町の宗格院に墓がある。

中島登(なかじまのぼる)

 天保9年2月2日(1838年2月25日)、武州多摩郡小田野(現在の東京都八王子市西寺方町)の農家に長男として生まれる。幼名は峯吉、後に登一郎。父は中島亦吉、母は中島イチ。

 安政3年(1856年)9月頃、19歳で天然理心流・山本満次郎に入門。安政4年(1857年)、同郷の安藤マスと結婚。長男・歌吉(後、登一郎)が生まれる。その後、八王子千人同心に所属したが、同僚の1人と衝突して斬殺した為、親戚家(井上益五郎家)に逃れる。

 元治元年(1864年)、新選組に入隊。近藤勇の命で武州・甲州・相模の地理調査等を秘密裏に行っていたといわれる。慶応3年(1867年)、新選組伍長に就任。慶応4年4月3日(1868年4月25日)、流山で近藤が新政府軍に投降した際には、同行役の薩摩藩士・有馬藤太を追尾したが、監視は厳しく虚しく帰った。

 土方歳三や島田魁ら数名の新選組隊士らと共に、大鳥圭介ら旧幕府軍と合流して宇都宮の戦い・日光口の戦い・会津戦争に転戦(登は、会津戦争で重傷を負った彰義隊隊士・大島清慎を救護所まで運んだと言う)。仙台で更に榎本武揚ら旧幕府海軍と合流して蝦夷地へ渡る。箱館戦争では弁天台場第2分隊嚮導役となった。

明治2年5月15日(1869年6月24日)、降伏。弁天台場で謹慎後に青森に送検され、同6月9日(7月17日)に弘前藩、7月21日(8月28日)、青森へ戻り、3ヶ月謹慎。10月24日(11月27日)、弁天台場に戻り、約5ヶ月謹慎した。明治3年(1870年)5月上旬、静岡藩お預けになり、中旬には赦免。

 明治14年(1881年)、趣味で栽培していた葉蘭に偶然新種が誕生し、品評会にて「金玉廉」と名付けられて爆発的な売れ行きとなるが、馬が親株を食べてしまった為商売終了。明治17年(1884年)には「鉄砲火薬売買人」免許を取得し、中島鉄砲火薬店を開業した。

 明治20年(1887年)4月2日、浜松にて死去。享年50。墓は浜松市中区下池川町天林寺。戒名は隆慶院孝庵義忠居士。


小嶋文平(こじまぶんぺい)

 八王子千人同心のなかで小嶋文平が比較的しられた存在だったのは、『桑都日記』に彼に関する記述があることと、彼が書きあげた玉川上水の由来記が早くから三田村鳶魚などの識者の目にとまり取りざたされたためでした。
 しかし文平についての詳しい人物像は、生家の資料が散佚してしまったために、墓碑などの資料に頼らざるをえず、多くは謎のままでした。

二宮 心斎(にのみや しんさい)

 二宮心斎は、八王子千人同心組頭。
 嘉永七年(1854)に千人同心の名簿「千人同心姓名在所図表」を編集したことで知られる。明治維新後、千人町の町名が廃止され、横山町と統合されることになった際、町名の存続を願い出た。

三田村鳶魚(えんぎょ)

 江戸文化研究家として知られる三田村鳶魚(えんぎょ)は、明治三年(1870)、八王子市大横町の縞買い商人の家に生まれた。東京に出て中江兆民の塾に学び、明治二十年代には自由民権運動にも参加した。

 その後、地方紙記者を務めながら、江戸文学、風俗の研究を行い、著書を残した。昭和二十七年(1952)、山梨県下部温泉で亡くなった。

原胤敦

 原胤敦は通称半左衛門。
 寛延元年(1748)、八王子同心千人頭の家に生まれた。
 寛政十二年(1800)には幕府に蝦夷地開拓を出願して承認を得た原半左衛門(胤敦)らは、勇払(現・苫小牧市)と白糠の二か所に分かれて上陸した。
 勇払と白糠は、いずれも太平洋側と日本海側もしくはオホーツク側とを結ぶ要所とされており、その警護と開拓を任されたのである。
 半左衛門は白糠へ、弟の新介は勇払に移住した。このとき勇払と白糠に移住した八王子千人同心は百三十二名。そのうち三十二名が現地で命を落とした。

 文化十一年(1814)、幕府から地誌調査の命を受けて、組頭植田孟縉とともに約十三年をかけて武蔵の国の多摩、秩父を調査し、この成果を「新編武蔵国風土記稿」にまとめた。文政十年(1847)、八十歳にて病没。

 墓前には、勇払(苫小牧市)から贈られた顕彰の石燈籠が建てられている。

増田蔵六

 増田蔵六は、八王子千人同心の家に生まれた。
 近藤内蔵助長裕の始めた天然理心流を初代および二代目近藤三助方昌に学んだ。
 指南免許を得て千人町の屋敷に道場を開いて、千人同心や付近の農民など多くの門弟を指導した。門人数千有余を数えたといわれる。,