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コンセプト武田の館 城を訪ねて

 甲府は武田信玄公一族のふるさとです。広い盆地には信玄公ゆかりの由緒ある神社仏閣が数多くあり、一族の栄華の夢の跡を今に伝え後世に残すところです。
 風林火山の軍機を翻し、戦国最強の騎馬軍を率いた武田信玄。武人であり、上杉謙信との死闘を繰り返しながら、一方で優れた統治者でもあった信玄の足跡をたどる旅。
 武田信玄と武田氏に焦点を当てて、ゆかりの地を訪ねていきます。

武田氏の栄枯盛衰
武田の館・城を訪ねて
信玄公ゆかりの地を訪ねて
甲府五山
風林火山と武田二十四将




武田神社

 武田神社 由緒書によれば、御祭神は武田晴信命、甲斐の名将である武田信玄公をまつった神社です。大正天皇の即位に際して信玄公に従三位(じゅうさんみ)が贈られたことをきっかけに、大正8年(1919)に館跡が武田神社として整備されました。
武田神社
 この地は、元来、武田氏三代が63年に渡り国政を執った由緒ある「躑躅ケ崎(つつじヶ崎)」の館跡で、国の史跡に指定されています。武田信玄の父・信虎が1519(永正16)年、武田氏代々の拠点である石和館(山梨県石和町)からこの地に館を築いて移った事に始まります。

 この地はもともと三方を山に囲まれ、相川扇状地の開口部であり、南に甲府盆地を一望することができます。館の完成した翌年には、館の北東2キロに要害城が築かれたようで、武田信玄の時代までここ躑躅ヶ崎館と詰城の要害山城が政庁および甲斐支配の中心でした。

 つつじヶ崎の館は戦国大名の館としては全国最大規模を誇るもので、境内に入るとまさに戦国時代を感じる空間となっています。

 近年の発掘調査で、館跡からは土塁や三日月堀、土橋などが発見され、戦国大名のなかでも優れた規模であることがわかってきました。

 天正9(1581)年に武田勝頼は新府城を築城し、本拠地を移転したため、武田氏館は一時機能を失います。
 武田氏滅亡後は織田家臣の河尻秀隆、本能寺後は家康の甲斐進出により支配されましたが、南に甲府城が新たに築かれ館は廃止されました。
 神社・拝殿の右奥には「宝物殿」があり、武田二十四将図、風林火山の孫子の旗、武田家に伝わる鎧や太刀・扇などが所狭しと展示されており、武田家に関連する貴重な品々を間近で見る事ができます。
 菱和殿(りょうわでん)の天井画には、山梨県内で見られる草木・禽獣やキノコが描かれ、幽玄な世界を醸し出しています。

「人は城、人は石垣、人は堀。情けは味方、仇は敵なり」の名言を残したとおり、武田信玄の強さは「人」でした。
 そして、「城」ではなく、この躑躅ケ崎館を本拠とし、周囲には家臣らの館なども多数あったと考えられています。
 『甲陽軍艦』によれば信玄は国境での合戦に常に勝利すれば、その内部に堅固な城を造る必要がないと語ったといいます。

 以下、武田神社 説明板より

 【由緒】  
 武田晴信公は清和源氏新羅三郎源義光公の後裔で、大永元(1521)年11月3日、武田信虎公の長男として石水寺要害城に生まれました。幼名を太郎、童名を勝千代と名乗り、天文5(1536)年3月に元服し、将軍足利義晴から「晴」の一字を賜り晴信といい、従五位下大膳大夫に叙されました。
 天文10(1541)年信虎公の後継者として、甲斐の国主となり、以降30有余年領国の経営に力を尽くされました。
 天正元(1573)年4月12日、天下統一の夢を抱き京に上る途中、信州伊那駒場で病没されました。(行年53歳)
 大正4(1915)年大正天皇の即位に際し、晴信公に従三位が追贈され、これを機として山梨県民はその徳を慕い、官民が一致協力して、社殿を造営、大正8(1919)年4月12日、鎮座祭が盛大に齋行されました。
【例祭】
4月12日(御祭神御命日)
 祭典終了後、神輿渡御が行われ、甲冑に身を固めた武田二十四将の騎馬が神輿に供奉し、豪華かつ勇壮な神輿の列が桜花の咲く中、甲府市内に繰り広げられ賑わいを見せております。

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  • アクセス:甲府駅北口から徒歩30分/甲府駅北口からバス10分・武田神社下車
  • 所在地 :甲府市古府中町2611




積翠寺

積翠寺

 武田神社の北北東方向、要害山の南西麓にある積翠寺は、行基の開祖とされ、『甲斐国志』に拠れば、古くは石水寺とされていたいたというが、これは境内の巨石から泉が湧き出ていたことで、石水寺と呼ばれていたようです。

 後に積翠寺と改められました。『甲斐国社記・寺記』に拠れば、南北朝時代に夢窓疎石の高弟竺峰を中興開山としたといいます。

 寺院裏に釣鐘をふせたような山(要害山)が見えますが、 これが『高白斎記』に拠れば、永正17年(1520年)つつじが崎の援護地として信虎が築城した要害城跡です。

  永正18年(1521年)11月3日に今川氏親の家臣 福島正成が1万5千の軍で甲府に進軍した「飯田原の合戦」において、武田信虎の正室大井夫人は要害山(要害城)に避難し、積翠寺にて信玄公を産んだといわれ、現在も境内には産湯を汲んだとされる井戸である産湯天神が残されている。

 戦国期には武田氏が主催する和歌や連歌会が行われ、積翠寺のほか甲府では一蓮寺や尊躰寺、東光寺などの寺院で開催されている。

 天文11年(1542年)3月9日には駒井高白斎が当座を務めた歌会が行われ、天文16年4月5日にも冷泉為和を招いた和漢聯句が行われている(『為和集』)。

 近世には慶長8年(1603年)に徳川四奉行から積翠寺村内に寺領を安堵されているが、判物は火災で失われています。

 寺宝として天文15年7月26日に後奈良天皇勅使として下向した三条西実澄・四辻季遠を招いて行われた句会の記録である『武田晴信和漢聯句帳』や、江戸時代に後陽成天皇皇子の八宮良純法親王が愛用したと伝わる硯箱・煙草盆が伝来しています。

以下は寺の説明版

 当寺は臨済宗妙心寺派にして行基菩薩の開創による鎌倉時代夢窓国師の弟子竺峯(じくほう)和尚中興開山なり。大永元(1521)年福島兵庫乱入の節(飯田河原の合戦)信虎夫人当寺に留り期に臨み一男子を産む。これ即ち信玄なり。境内に産湯の天神産湯の井戸あり堂西に磐石あり高さ八九尺泉これに激して瀑となるよりて石水寺の寺名になり村名になると甲陽軍鑑に伝う。積翠寺名園は夢窓国師の築庭なり。寺宝に信玄像及び天文15年後奈良天皇の勅使として下向せられし三條四辻ニ卿と拙寺にて催されし信玄公の和漢聯句一連並に良純王親王より仰岩和尚に贈られし書簡等々現存す。

  • アクセス:甲府駅北口からバス15分・積翠寺下車、徒歩5分
  • 所在地 :甲府市上積翠寺町984

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要害

要害山

 積翠寺背後の釣り鐘をふせたような要害山に、信玄公の父・武田信虎が永正17年(1520)に築いたのが要害城です。

 若くして家督を継いだ信虎は、永正16(1519)年、躑躅ヶ崎の地に館を築いて新たな本拠とし同年12月には新館に入ります。

 自ら移転するだけではなく服従する国人たちにも移住を強制したようです。
 甲斐国内で反乱を起こした油川氏や小山田氏らの武将を次々と平定し、武田氏館の周辺に集住させて監視を強化しました。
 これに対し自らの土地に愛着を持つ国人達の反発は必至で、栗原氏、大井氏、逸見氏等は城下を引き払いそれぞれの所領に籠りますが、信虎はこれを許さず武力で3氏を制圧し甲斐における政治中心地の礎とします。

 しかし駿河の今川氏に甲斐へ攻め込まれた信虎は、躑躅ヶ崎の館を完成した翌年、緊急時に避難のために立てこもる詰城として、要害山城を築き、周辺にも支城を配置して本拠地の防備を固めました。標高は770m。戦の際に立てこもるのを目的とした詰め城で、山頂を整形して主郭とし、山腹にも連続的に郭を配置し防備を固めています。

 永正18年(1521)秋には武将福島正成(ふくしままさしげ、1492〜1521)率いる今川軍が侵攻、大島(現身延町)の戦いで勝利、富士川をさかのぼって甲府盆地西南部の冨田城(現南アルプス市)を制圧し甲府に迫ります。

 この時身重の信虎の妻大井夫人は冨田城落城を受けて要害城に避難、接近する今川軍は竜地(現双葉町)に布陣、迎え撃つ信虎は飯田河原、上条河原での2回に亘る戦い福島正成を討取り勝利を収め撃退します。
 懐妊中だった大井夫人は要害山城に避難し、後の武田信玄を出産したとされています(一説には山裾の積翠寺)。遊歩道が整備され、山頂(城の主郭部)までは約30分。土塁や堀跡など城の遺構も見ることができます。

 

  • アクセス:甲府駅北口からバス15分・積翠寺下車、徒歩15分
  • 所在地 :甲府市上積翠寺町





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