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コンセプト信玄公ゆかりの地を訪ねて

 甲府は武田信玄公一族のふるさとです。広い盆地には信玄公ゆかりの由緒ある神社仏閣が数多くあり、一族の栄華の夢の跡を今に伝え後世に残すところです。
 風林火山の軍機を翻し、戦国最強の騎馬軍を率いた武田信玄。武人であり、上杉謙信との死闘を繰り返しながら、一方で優れた統治者でもあった信玄の足跡をたどる旅。
 武田信玄と武田氏に焦点を当てて、ゆかりの地を訪ねていきます。

武田氏の栄枯盛衰
武田の館・城を訪ねて
信玄公ゆかりの地を訪ねて
甲府五山
風林火山と武田二十四将




甲斐善光寺

 “善光寺”というとよく長野県の信濃善光寺が挙げられます。神仏への信仰が深かった武田信玄公は、川中島合戦の時、戦火が広がり善光寺が荒廃することを危惧し、本尊の阿弥陀如来をはじめ諸仏や寺宝類を甲府に移しました。このことがきっかけで甲府に甲斐善光寺が誕生したそうです。

 甲斐善光寺の山門は朱塗りの楼門(2階建ての門)で、両脇には仁王像が祀られています。門の2階部分には手すりの付いた板廊下がめぐらされ、堂々たる姿で参拝に訪れた人々を出迎えます。山門をくぐって正面に見えるのが、山門とともに国の重要文化財に指定されている金堂(本堂)です。

 武田氏の滅亡以後も徳川家康らの手厚い保護を受けてきました。
 本堂は江戸時代に一度焼失していますが、その後31年の歳月をかけて1796年に再建され、今もその姿を残す撞木(しゅもく)造りの本堂は、東西約38m、南北約23m、高さ約26mもある堂々としたもので、東日本最大級の木造建築物です。
 境内に建てられた宝物館では、木造阿弥陀三尊像をはじめ源実朝像など数多くの貴重な文化財が展示されています。

 現在の信濃善光寺の本尊は「阿弥陀三尊像」ですが、信玄公が甲斐善光寺へ移したのち、武田家の滅亡後、織田家、徳川家、豊臣家と移転し、さらに豊臣秀吉が京都・方広寺の御本尊として祀っていましたが、秀吉死去直前の1598(慶長3)年に、再び長野へ戻りました。信濃善光寺の御本尊「一光三尊阿弥陀如来」は一つの光背の中央に、阿弥陀如来、向かって右に観音菩薩、左に勢至菩薩が並びます。

 誰も拝むことが出来ない絶対秘仏のため、前立本尊が造られ、甲斐善光寺では武田信玄がもたらした信濃善光寺の前立仏を御本尊としています。 甲斐善光寺
 御開帳とは数え年で7年に一度、本堂内の厨子に安置されている御本尊の姿を拝むことができることです。

 御本尊と本堂前に建てられる高さ約5?の回向柱という柱を「善の綱」で結び、その柱に触れることで直接御本尊に触れることと同じご利益を得られるいわれているそうです。

 甲斐善光寺は檜の一本柱で幅はおよそ24cm、高さはおよそ5mです。
 この御開帳、山梨だけではなく、信州善光寺をはじめとする全国6か所で同時開催されます。(甲斐、信州、飯田元善光寺、祖父江(愛知)、関、岐阜) 甲斐善光寺は大正年期の時に御開帳は行っていましたが、その後長い間行われず、80年以来の御開帳が平成9年でした。
 その時から、信州善光寺と足並みを揃えて7年に一度御開帳が行われるようになったそうです。


 甲斐善光寺で、体験して頂きたいのは鳴き龍です。本堂の天井に巨大な2つの竜が描かれています。この部分がつり天井になっていて、手をたたくと多重反響現象により共鳴が発生します。“びょーん”という音が耳に入ってきますが、この音が龍の鳴き声とされています。
 この音、本当はとても大きな音なのですが、誰かが手をたたけば本堂の中にいる方すべてが聞けるわけではありません。

 天井は、ゆるやかな曲線を描いており吊り天井の廊下部分のみで聞こえるのです。鳴き龍というのはどうやら全国に20ヶ所くらいあるらしいのですが、有名な日光東照宮の鳴き龍は住職以外が鳴かす事は禁止です。

 しかし甲斐善光寺の鳴き龍はそんな厳しい決まりはなく、拝観料500円を払えば誰でも好きなだけ龍を鳴かせることができます。それにしても大変不思議な現象なので、是非お試しください。

 また、甲斐善光寺にも長野と同様に「戒壇廻り(かいだんめぐり)」をすることが出来ます。戒壇廻りとは、金堂下にある「心」の字をかたどる真っ暗な通路を通って鍵を探し、触れるこで御本尊と縁が結ばれ極楽浄土に行けるというものです。長野善光寺のものが有名ですが、同じような戒壇廻りが各地の善光寺でも行われています。

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  • アクセス:JR身延線善光寺駅から徒歩7分/甲府駅南口からバス15分・善光寺入口下車、徒歩5分
  • 所在地 :甲府市善光寺3-36-1


信玄公墓

 信玄公の遺体を火葬した場所だといわれ、火葬塚とも呼ばれています。風林火山の旗が、武田信玄を連想させてくれます。

 天正元年(1573年)4月12日、信州伊那駒場(諸説あり)で波乱の人生を閉じた武田信玄、その臨終に際し、自らの死を「3年の間隠せ」と家臣に命じた話は、多くの方がご存知でしょう。

 嫡子勝頼は、遺言に従い3年後、遺体は円光院に近い武田24将のひとり土屋右衛門の邸内で荼毘に附し、天正4年(1576年)4月16日、塩山の恵林寺に於いて葬礼を行い埋葬したと伝えられています。

 この武田神社東方の武田信玄公御墓所こそが、荼毘に附したと伝えられる土屋右衛門の邸宅跡で、武田家滅亡後、近隣の住信玄公墓民はここを魔縁塚と呼び、恐れて近づかなかったといいます。

 安永8年(1779年)、甲府代官、中井清太夫がここを発掘した際、石棺を見つけ、恐れ多くもその銘に信玄の戒名である『法性院機山信玄大居士・天正元年癸四月十二日薨』とあるのを確認し、元通り埋葬し直し、墓石を作って整備し、幕府に届け出て信玄公の墓と定めたといいます。発掘されたこの場所に、現在の墓石が建立されたのだそうです。

 信玄公の墓はこのほか、山梨県内では大泉寺、恵林寺、長野県の諏訪湖、長岳寺と竜雲寺、和歌山県高野山、愛知県福田寺、京都の妙心寺など全国にあります。これは信玄公が遺言によって、喪を3年間秘めていたことや万一の外敵を恐れて、埋葬地を秘密にしていた結果ともみられています。

  • アクセス:甲府駅北口からバス8分・護国神社入口下車、徒歩10分
  • 所在地 :甲府市岩窪町

大泉寺

 大永元年(1521)、武田信虎が天桂禅長を開山として建てた寺で、信虎の菩提寺です。天正2年(1574)3月、信虎が信州甲斐善光寺で没した時、その遺骸を国元に送り、ここに埋葬されました。

 「信虎は武田信縄の子として明応3年(1494)石和館に生まれた。永正4年(1507)武田氏の家督を継ぎ、武力を持って甲斐国内の統一の成功したが、やがて嫡子晴信(信玄)と対立、駿河(静岡県)に追われた、流浪の末、天正2円(1574)信濃国(長野県)伊那で病没し、ここ大泉寺に葬られた、法号を大泉寺殿泰雲存康庵主という。

 彼はまた、永正16(1519)年、館を躑躅ヶ崎に移し、甲府を創設したことでも知られている。信虎の墓は、中央の五輪塔(補修の際、上部を相輪状に変えた)がそれである。(甲府市教育委員会 案内板より) 

 この寺も戦災のため、法堂、庫裡などを焼失しましたが、幸い、武田3代の霊廟、総門、宝蔵は火をまぬがれ、霊廟には信虎・信玄・勝頼3代の肖像が安置されています。

 また、『絹本着色武田信虎像』『絹本墨画松梅図』(国重文)、『大泉寺文書』『金銅金具装笈』(県文)、『紺紙金泥法華経』(市文)などの寺宝を今に伝えている。見事な総門から中雀門、本堂と境内までの参道は両側を杉木立に被われ、森閑とした寺域は禅寺の落ち着いた雰囲気が印象深く、心が安らぐ雰囲気です。

以下現地案内版より

 本史跡は室町時代末期戦国の世に活躍した武田信玄の父信虎の墓域である。信虎は武田五郎信縄の長男として明応3年1月6日石和の居館に生まれ幼名を川田五郎と呼ばれた。
 永正4年14歳の時武田氏18代の甲斐国主となり、国内の同族を統御し、永正17年従五位下左京太夫陸奥守に任ぜられた。彼は生来豪勢勇武にして乱世にその領土を広げ武蔵、相模、駿河、信濃と隣国を征し、大いに武威を発揚したが、嗣子晴信(信玄)と意合わず、天文10年48歳の折り、駿河の今川の許に隠退し、僧形となり、号を我済と称して京都方面に流寓、後年信濃高遠城に81歳の高齢をもって病死するまで帰国しなかったと伝えられている。
 その没年は天正2年3月5日という。大泉寺殿雲存康大庵主はその法号である。尚、当寺には彼の肖像画をその子信廉逍遥軒が描き残しているが国重要文化財に指定されている

 この総門は永慶寺から移築されたと伝えられている。黄檗宗様式の門として建物細部の諸要素は宇治万福寺の総門に極めて近似している。
 永慶寺は宝永7年(1710)、柳沢吉保が建立した菩提寺である。現在の護国神社境内及びその周辺にあったが、享保9年(1724)柳沢氏の大和郡山への転封に伴って移転を余儀なくされた。その際、遠光寺(伊勢一丁目)の山門、禅林院(古府中町)の本堂なども同時に移築されたと云われるが、現存するのはこの総門のみである。

  • アクセス:甲府駅北口からバス5分・武田3丁目下車、徒歩10分
  • 所在地 :甲府市古府中町5015

入明寺

入明寺

 長享元年(1487)、62代村上天皇の苗裔六条有成が、蓮如上人に よって得度し、浄閑と名乗り甲斐に来て武田氏の庇護のもとに草庵を営み、開山した寺で「長元寺」 といいました。
 二代誓閑の時に現在地に移り、三代栄閑の時に「入明寺」と改めました。

 「一向宗」とのつながりを求めた信玄が、公卿の出である入明寺住職に話をして、誓閑、栄閑兄弟 が石山本願寺の顕如上人の裏方三条左大臣公頼の息女にお願いしてその妹と信玄との婚姻をとりもった といいます。
 その人が正室三条夫人で、義信、信親(竜宝)等の母です。

 この寺には、信玄の次男武田信親「竜宝(芳)」の墓があります。信親は幼少から目を患い、盲目に。半僧半俗となり、「お聖道様」とも呼ばれました。また、信玄は盲目になった信親を信州海野の城主とし、海野次郎信親と名乗らせました。

 天正10年(1582)、武田勝頼が天目山の戦いで敗れると、信親は入明寺境内で自刃(42歳)。寺には、位牌や信玄公から8代後の護信が作った信親の木像が伝えられています。

  • アクセス:JR身延線南甲府駅から徒歩15分/甲府駅南口からバス15分・伊勢町営業所下車、徒歩15分
  • 所在地:甲府市住吉4-13-36






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