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4−26.八王子千人同心悲話 夜泣き梅女

 幽霊の画といえば円山応挙が有名ですが、おそらく世界を見ても非常に珍しいであろう幽霊の銅像が建つ町がある。この話をするには「八王子千人同心」の説明をしなければならない。

 江戸に入府した徳川家康は、甲武国境の 警備を完全なものとするため、武田の遺臣を集めて半農半士という独特の身分 制度を有する千人同心を組織した。
 その後、寛政11年(1799年)、この頃ロシア艦隊が蝦夷地近海に出没するようになり、徳川幕府は非力な松前藩から東蝦夷地一体の領地を召し上げ幕府直轄領とした。
 そして、武州多摩の八王子千人同心隊がその警備のため、北海道の白糠、そして苫小牧勇払に夫々50人を引き連れ赴いた。

 同心隊は粗末な小屋を建て、防備と開墾に精を出し、後の屯田兵の先駆けともいえる存在だった。
 しかし、しかし火山灰の土地に農作物は育たず、手持ちの野菜はすぐに底をついた。さらに冬の寒さは関東の武州と比べ想像を絶する。病人も続出したが、手当もできぬまま、その死を看取るほかに術はなかったという。
 寒さと栄養失調、流行り病のためわずか1年足らずで隊士の3割が死亡。その後も開墾は続いたが4年で断念、解散し開拓地は放棄した。

 さて、八王子千人同心頭、川西佑助の妻、梅はこの地「勇払(ゆうふつ)」へ来たただ一人の和人女性だった。その中で梅は、佑助の子を身ごもり出産する。

 だが母親の食べ物が満足に無いため乳がでない。赤児は、でない乳房をくわえて力無く泣くだけであった。梅はそれを見てどうすることもできない。夫の祐助は仕事に追われ留守がちである。梅も病となり、そのからだは日に日に衰弱していくのでした。

 ついに梅は愛しい赤児を胸に抱き「この子に、お乳を…」と言いながら二度と故郷の土を踏むことなく、入植して3年後の享和3年(1803年)5月22日夜、幼い赤子を気にかけつつ25歳という若さで梅は亡くなってしまった。

 梅の死後、雨の夜になると赤子を抱いた若い母親が「この児にお乳を下さい」と言って泣きながら近所の家の戸をたたいてまわり、可哀想にと思って外に出てみると誰も居らず、若い女性が墓場の方へ消えて行くという姿が何度も目撃されるようになった。

 近所の人は「あれは梅さんが、幼い子供を気にかけて亡くなったせいだろう。可哀想に…」と噂し、“夜泣き梅さん”と呼び、その霊を悼んだと言う。

 夫の佑助は妻への追慕と哀惜の情を「哭家人(かじんなげく)」と題し、七言絶句を墓碑銘に刻んだ。

 万里の辺(ほとり)に游(あそ)びて未だ功成らず/わが妻ひとたび去りて旅魂を驚かす/子を携えて慟哭(どうこく)す穹盧(きゅうろ)の下/尽くし難し人間惜別の情

 漢詩が刻まれた梅の墓は、勇払開拓史跡公園の中に他の18墓と並んで今も立っている。

 梅が亡くなった翌年、同心隊は箱館奉行所勤務になり、開拓地は放棄された。祐助も5年後に勇払を撤収して箱館に移るが、勇払での疲労が重なったのでしょうか、ほどなく死去した。
 墓は伊達市有珠の善光寺にあり、梅の名も並んで刻まれている。建てたのは祐助と梅の遺児だったという。

 昭和48年には苫小牧市が千人同心隊の偉業をたたえ、その下には赤子を抱いた梅の像も建立した。愛し子を抱き、亡霊となった“夜泣き梅さん”の銅像である。

 この像は北海道苫小牧の市民会館横に建っている。
 北の地に伝わる八王子千人同心にまつわる悲話である。

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