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八王子千人同心 駆け抜けた誠の武士魂

八王子千人同心 駆け抜ける誠の侍魂

 八王子千人同心のページにようこそ。

 天正18年(1590)に北条氏照を城主とした八王子城が豊臣秀吉の関東制圧で落城すると、新たに関東の領主となった徳川家康は、武蔵国多摩郡八王子(現・東京都八王子市)を甲斐・武蔵の国境警備の重要拠点、敵の侵入を守備する重要な防衛前線基地と考えました。
 そこで徳川家康は、自ら甲斐武田家の滅亡後に庇護した武田遺臣であった小人頭とその配下を、これにあてたのです。
 その後2度の増員を経て、千人頭10人が率いる1000人の大部隊となったため、 「千人同心」と呼ばれるようになりました。 これが八王子千人同心の始まりです。
 その後、甲斐が天領に編入され、政権も安定してくると国境警備としての役割が薄れ、1652年からは交代で家康を祀る日光東照宮を警備する日光勤番が主な仕事となるのでした。
 千人同心の配置された武蔵国多摩郡は、長年にわたり徳川の庇護を受けていましたので、武州多摩一帯は千人同心だけでなく農民層にまで徳川恩顧の精神が強かったと考えられます。
 後の新選組に参加する千人同心が多数現れたのも頷けます。
 八王子千人同心は、忠義を持った本当の武士(もののふ)であったといえるでしょう。
 武骨な彼らは、武田、徳川、そして明治新体制と激動の時代の流れに翻弄されながらも、また、時々の権力者に戸惑いながらも、また数々の悲劇に会いながらも、頑なに忠義をもって一心に駆け抜けていったのでしょう。

 そんな彼らの生き様に敬意を表し、紹介します。


八王子千人同心の歩み

  • 千人同心の組成

    江戸に新たに城を築き、関東の領主となった徳川家康は、まずは、領内の治安を保つ必要が生じました。そこで、考えたのが甲斐武田氏の遺臣を集めて小人頭とその配下を、甲斐と武蔵の国境警備、治安維持、及び甲州道の警備のため、八王子へ配置することでした。
  • 日光勤番の開始

    慶長20年(1615)豊臣家が滅び名実共に徳川家の世になり、戦が無くなり「千人同心」の存在意義が薄れる中、新たに慶安5年(1652)6月、「千人同心」に日光勤番が命ぜられました。
    当初は100名、50日交替で火の番をしていたが、その後、寛文12年(1672)1月から一旦総勢50名に減員されました。その後、貞享元年(1684)12月に大延焼が発生し再び100名体制に戻されたのでした。
  • 蝦夷地の開拓と警備

    元文4年(1739年)、ロシアは積極的に南下し千島列島もロシア領になっていきました。このような状況下、蝦夷地の確保が急務となり、寛政11年(1799年)に、事態の打開を図るため、幕府の老中松平定信は、蝦夷地の開拓と警備を千人同心に命じますることにしました。
    寛政12年(1800)3月20日、21日の2日間にわかれ、八王子から組頭原半左衛門を隊長に弟新介を副士として同心子弟100人を伴って蝦夷地に入ります。
  • 幕末の千人同心の活躍

    近代装備を身に付けた千人同心は日光火の番の一方で、戦闘集団として文久3年(1863)2月将軍家茂が初めて上洛する時には千人同心が388名同行しています。翌年(1864)6月にも千人組100名が将軍家茂を警護して上京しています。
    また、攘夷を唱えて水戸天狗党の乱が勃発し、甲府城を天狗党の攻撃から守る為、千人同心は864名を出動させたといわれています。 開港地横浜の警備、長州征討への従軍というように、休みなく動員されます。



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